アンガモスの戦いでの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:29 UTC 版)
「ミゲル・グラウ・セミナリオ」の記事における「アンガモスの戦いでの死」の解説
ミゲル・グラウは、1879年10月8日のアンガモスの海戦で1対4の死闘を演じた末、チリ海軍の装甲艦アルミランテ・コクランが発射した徹甲弾を受けて戦死した。乗艦ワスカルは直撃弾多数を受けて大破し、自沈しようとしたところを拿捕された。拿捕された後、最後まで生き残って艦を指揮していたペドロ・ガレゾン中尉は、チリ海軍に対して退艦する前にミゲルの遺体を捜索させて欲しいと申し出た。チリ海軍はその申し出を容れ、徹底的に捜索させたところ、ふくらはぎの中ほどから足までの皮膚だけが見つかった。チリ海軍はミゲルのためにミサを開くなど栄誉礼をもって埋葬し、1890年には他の太平洋戦争での戦死者の遺体とともにペルーに返還した。チリにはミゲルの脛骨の断片が残され、サンティアゴの博物館で帽子等の私物とともに展示されていたが、これも1958年にペルーに返還された。返還の際にはチリではカルロス・イバニェス・デル・カンポ大統領が出席する式典をもって送り出され、ペルー側はマヌエル・プラド・イ・ウガルテチェ大統領が以下の賛辞をもって出迎えた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}輝かしい提督の姿は、単に我々あるいはアメリカの歴史にとどまらず、全世界の名誉たる栄光を象徴している。提督の人生とその死は、騎士道と自己犠牲の範である。 その後、1976年にはエル・カヤオにあるペルー海軍士官学校に併設された地下墓地に移された。
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