アルデバルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 00:37 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動Ardebart アルデバルト |
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出生 | 611年頃 |
死去 | 没年不明 |
子女 | エルウィグ(エウリック2世) ペドロ(カンタブリア公)?[注釈 1] |
父親 | アタナギルド(ヘルメネギルドの子) |
母親 | フラウィア・ユリアナ(東ローマ皇帝マウリキウスの姪) |
アルデバルト(Ardebart、611年頃 - 没年不詳)は、7世紀の人物で西ゴート王国の王族。西ゴート王エルウィグ(在位:680年 - 687年)の父。アルダバスト(Ardabast)とも呼ばれる。579年にアリウス派からカトリックに改宗して父王レオヴィギルドに対して反乱を起こして584年に敗れ、585年に非業の最期を遂げた西ゴート王子ヘルメネギルドとその妻で改宗を強く勧めたイングンデは祖父母とされ、レオヴィギルドの曾孫、レオヴィギルドの後継者レカレド1世の大甥にあたることになる。
概略
『アルフォンソ3世年代記』によれば、キンダスウィント(在位:642年 -653年)の治世の初め頃、東ローマ帝国から追放処分を受け、西ゴート王国に亡命してきた。キンダスウィントはアルデバルトを歓迎、自身の姪ゴダ(ゴド)を妻として与えて側近とした。アルデバルトとゴダの間には後に陰謀を巡らしてワムバ(キンダスウィントの子レケスウィントの後継者)を王座から引き摺り下ろして王位に就いたエルウィグが生まれた[注釈 2]。このキンダスウィントの行為は外国人を重用したとしてゴート人の怒りを買ったという。この記述以外にアルデバルトと思われる人物の消息は判明しておらず、キンダスウィントの後継者レケスウィントの治世(キンダスウィントとの共同統治を含む649年から672年)、レケスウィントの次の王ワムバの治世(672年から680年の8年間)そして息子エルウィグの即位(680年)という流れにおいて、一切記録に姿が現れないことから没年は確定できない。
出自
17世紀から18世紀のスペインの歴史家ルイス・デ・サラサール・イ・カストロ(1658年 - 1734年)がまとめた西ゴート王国の家系図によれば、アルデバルトの父はアリウス派からカトリックに改宗した西ゴート王子ヘルメネギルドとその妃イングンデの一人息子アタナギルドで、母は東ローマ帝国皇帝マウリキウスの姪フラウィア・ユリアナだという。これに従えばアルデバルトはヘルメネギルド夫妻の孫、アタナギルド夫妻の子でレオヴィギルドの曽孫、レオヴィギルドの兄リウヴァ1世の曽姪孫、リウヴァ1世・レオヴィギルド兄弟の父リウヴェリックの玄孫となる。また、アルデバルトの父方の祖母イングンデはレオヴィギルドの後妻ゴイスウィンタの孫娘かつゴイスウィンタ次女ブルンヒルド[注釈 3]とその夫シギベルト1世の長女である。シギベルト1世はフランク王国の分王国アウストラシアの国王であり、アルデバルトにはフランク族の血が流れ、あくまで一説だがゴイスウィンタはアラリック1世に始まるバルト家の血筋(東ゴート王国初代王テオドリックの母方の祖父にもつアマラリックの娘)とされる[注釈 4]。母方の祖父はマウリキウスの弟ペトルスでユスティニアヌス王朝と血縁関係が存在し、アルデバルトはマウリキウスの大甥となる。フラウィア・ユリアナの母方の血筋を遡るとユリウス=クラウディウス朝、コンスタンティヌス朝、ウァレンティニアヌス朝、テオドシウス朝の皇帝達やその一族・子孫を確認することができる。881年(もしくは883年か884年)に作成され、その後リオハのアルベルダ修道院にて976年頃に短い続編が書き加えたれた『アルベルダ年代記』にはエルウィグ王の父がアタナギルドとその妻の息子であることが記されている。別の史料ではアタナギルドが生き残って結婚し子供を儲け、結婚している間に死亡したと主張されている。これらの説が正しければ、ヘルメネギルドの血筋が約100年の時を経た曾孫エルウィグの代で西ゴート王室と西ゴート国王の座に復活したことになる。
だが、アルデバルトの父とされるアタナギルドの消息を示す一次史料は存在しない[注釈 5]。ルイスが主張しているアタナギルド夫妻とアルデバルトの親子関係を示唆する史料がルイスの時代に存在していた可能性はあるが、現在に伝わっていない。研究者の間ではアルデバルトの別名アルダバストに注目して以下の推測がある。
アルダバストという名前はアルメニアの有力貴族マミコニアン家出身の人物によく見られる名前に類似しており、例としてマウリキウスの妹ゴルディアとその夫フィリピコスの娘(名前不詳)がマミコニアン家のアルタバストゥス(アルタヴァズド)[注釈 6]に嫁いでおり、時代が下って、東ローマ皇帝レオーン3世の娘アンナの婿となりニケフォロスとニケタスという2人の子を儲け、743年に皇帝を自称して処刑されたアルタバストス(アルタバズド)がいるなど、5世紀から8世紀にかけてアルメニア出身者(もしくはルーツを持つ人物)が東ローマ帝国の歴史に登場し、後世にその血筋が東ローマを支配する王朝に入り込むなど、後世に存続している。
追放、亡命の理由
アルデバルトが東ローマ帝国から追放処分を受け、西ゴート王国に亡命した理由については明確になっていない。キンダスウィントの治世の初めに西ゴート王国に到着したという記述から、東ローマ帝国でヘラクレイオスが没し、その後継者争い(ヘラクレイオスの長男コンスタンティノス3世とその子コンスタンス2世一派とヘラクレイオスの後妻マルティナとその子でコンスタンティノス3世の異母弟ヘラクロナス一派の対立)に巻き込まれたことが考えられているが、信頼できる一次史料は皆無である。
子孫
アルデバルトの子で正式に確認できるのはエルウィグ王だけである。息子エルウィグの娘キクシロ(アルデバルトの孫娘)はエルウィグの次に即位したエギカ(エルギカ)王(在位:687年 - 702年)と結婚し、息子にウィティザ王(在位:694年 - 710年)がおり、アルデバルトの曽孫にあたる。ウィティザにはアギラ2世、オルムンド、ロムロ(ロムルス)とアルデバルトの別名と同名アルダバスト(アルド、アルドヌス、ラテン語表記:アルダバストゥス(Ardabastus))と呼ばれた4人の子がいた。更にアギラ2世にもアルダバストという息子がいたと言われている。ウィティザの息子の一人でアギラ2世の弟アルドはアギラ2世の死後、王位を引き継いだと思われるが、720年ないし721年に死亡したとされる。アギラ2世の他の子としてマドルバル、オッパス、サラの1男2女がいるが、サラはアギラ2世の兄弟オルムンド(アルムンド)の娘でアギラ2世の姪ともされる。サラの末裔に10世紀の年代記の作者イブン・アルクーティーヤ(「ゴート娘の子」を意味する)がいる。
脚注
注釈
- ^ エルウィグの兄弟という説とエルウィグの子という説あり。アストゥリアス王国初代国王ペラーヨの娘婿アルフォンソ1世とその兄弟カンタブリア公フルエーラ(ベルムード1世の父)の父。
- ^ 異説としてエルウィグはゴート人ではなく、ビザンチン(東ローマ帝国のこと)生まれともされている。
- ^ ゴイスウィンタはレオヴィギルドと再婚する前にレオヴィギルドの前任者アタナギルドの王妃であり、ブルンヒルドとその姉ガルスウィントの2女を儲けていた。
- ^ 異説として、ゴイスウィンタはヴァンダル王国第5代国王ヒルデリックの甥ホアメルの娘、もしくはヒルデリックの孫娘とも。父がアマラリックの場合、母はアマラリックの正妃クロティルドとされるが、記録上、クロティルドに子女がいたとする情報は無い。現代の歴史家の中にはゴイスウィンタが西ゴート王家であるバルト家に属する人物であることを示唆する者もいる。
- ^ ゴファートはアタナギルドの叔父(母イングンデの弟)キルデベルト2世がアタナギルドの人質問題を利用される形で参加していた東ローマ帝国のランゴバルド王国への遠征に消極的になり和解に踏み切ったという出来事を、10歳前後と考えられているアタナギルドの死と結び付けているが、キルデベルト2世とランゴバルドの交渉を含めてこの時点でのアタナギルドの死を想起させる史料は皆無である為、この時点におけるアタナギルドの死には疑問符が付いており確証に欠ける。
- ^ このアルタバストゥスを570年代に東ローマ帝国に亡命してきたマミコニアン家の一族ヴァルダン(バルダネス)・マミコニアンの息子に比定する説があるが不明。更にこの比定ではヴァルダンとアルタバストゥスの末裔にヘラクレイオス王朝断絶後に東ローマ皇帝となったフィリピコス・バルダネスがいるとしている。フィリピコス・バルダネスの出自について判明してることはパトリキウスという称号を持つニケフォロスを父に持ったペルガモン出身の人物で、自身も皇帝即位前はパトリキウスだったということである。
出典
参考文献
- 玉置さよ子 『西ゴート王国の君主と法』創研出版、 1996年
- 鈴木康久 『西ゴート王国の遺産 - 近代スペイン成立への歴史』 中央公論社、 1996年1月
- 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版社、 1999年2月
- 橋本龍幸 『中世成立期の地中海世界 -メロヴィング時代のフランクとビザンツ -』南窓社、 1997年2月28日
- 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、 1982年
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