アルタン=ハンとは? わかりやすく解説

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アルタン‐ハン【Altan Khan】

読み方:あるたんはん

1507〜1582]内モンゴル族トウメト部の長。ダヤン=ハンの孫。1570年、明(みん)と和睦して、順義王の号を受けたまた、チベット遠征しダライ=ラマ招いてモンゴルラマ教移入した

[補説] 「俺答汗」とも書く。


アルタン・ハーン

(アルタン=ハン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/09 19:06 UTC 版)

アルタン・ハーン

アルタン・ハーン(Altan Qaγan、中国語: 俺答汗モンゴル語: Алтан Хаан1508年1月2日[1] - 1582年1月13日[2])は、北元時代のトゥメト部の部族長。ダヤン・ハーンの孫(在位:1551年 - 1582年)。「アルタン」は「黄金」を意味する。

生涯

1531年バルス・ボラト・ジノンが死去したため、長男のグンビリクオルドス部族長のジノン(晋王)となり、次男のアルタンはトゥメト部族長となった[3]。グンビリク・ジノンとアルタンの兄弟は毎年、オイラトモグーリスタン青海の遊牧民を征伐し、明朝に侵入と掠奪を繰り返した[3]

1542年、兄のグンビリクが亡くなると、チャハル部ボディ・アラク・ハーンはアルタンを右翼の新しい指導者と認めて、トシェート・セチェン・ハーン(Tösheetü Sechen Khan)という称号を授けた[注釈 1][3]

1547年、ボディア・アラク・ハーンが崩御すると、その長男のダライスンはアルタン・ハーンの圧迫を避けてチャハル部とハルハ部の一部を率いて大興安嶺山脈を越えて東方に移動し、遼河の上流域に遊牧地を移した[4]

1565年、アルタン・ハーンの庇護を受けた亡命中国人がアルタン・ハーンのために中国式の城「大板升」を建設した[4]。これがのちのフフホトとなる[4]

アルタン・ハーンは60歳を越えてから外孫すなわち娘の娘があまりにも美人だったので[注釈 2]、婚約者からとりあげて第三夫人とした[5]。起こった婚約者が武力に訴えようとしたので、アルタンは孫の婚約者をとりあげて代わりに与えた[5]。それによって今度は孫が怒って民に亡命した[5]

1571年、アルタン・ハーンは孫が明に亡命した事件をきっかけとして、明の隆慶帝と講和を結んだため、明から「順義王」の称号を与えられた[6]。これによって両国は毎年国境沿いに定期市を開き、モンゴルは家畜や皮製品、乳製品を、明は織物や日用雑貨をもって貿易をおこなうこと、モンゴル領首たちに明が毎年決まった額の俸禄を支給することが決まった[6]。1575年、明はこの国境沿いの町を「帰化城」と名付けた[6]。一方で中国文化の流入でモンゴルの独自性が失われることを危惧したアルタンはチベットとの関係も強化した[6]。チベットのカムから来たアセン・ラマの勧めで仏教に帰依したアルタン・ハーンはゲルク派の高僧でデプン寺貫主であるソェナム・ギャツォを招くため、チベットに使者を遣わした[6]。使者は1575年に出発し、途中青海(アムド)のチャプチャルに寺を建立してチベットに至ったが、この時はチベットの内紛のために招請できなかった[6]

1578年、アルタン・ハーンはソェナム・ギャツォと青海のチャプチャルで会見し、ソェナム・ギャツォに「ダライ・ラマ[注釈 3]の称号を贈った[6]。ソェナム・ギャツォは転生活仏だったので、その前の二代にわたる前世から数えてダライ・ラマ3世と称した[6]。これ以降、教権を代表するダライ・ラマが施主であるモンゴルのハーンとその一族に称号を授与する慣例が生まれた[6]

1582年、アルタン・ハーンは死去し、長男のセンゲが後を継いだ[7]

系図

アルタン・ハーンについて書かれた史料

脚注

注釈

  1. ^ 「トシェート」は「補佐」の意味で、モンゴルで2番目のハーンという意味[3]
  2. ^ 明側からは「三娘子(さんじょうし)」(第三夫人の意)と呼ばれる
  3. ^ 「ダライ」はモンゴル語で「大海」を意味し、チベットの「ギャツォ」の訳である。

出典

  1. ^ 楊紹猷 (1992年3月) (中国語). 《俺答汗評傳》. 中華人民共和國: 中国社会科学出版社. pp. 第10頁. ISBN 9787500410027. https://www.google.com.tw/books/edition/%E4%BF%BA%E7%AD%94%E6%B1%97%E8%AF%84%E4%BC%A0/qJ45AAAAMAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E4%BF%BA%E7%AD%94%E6%B1%97%E7%94%9F%E6%96%BC%E8%97%8F%E6%9B%86&dq=%E4%BF%BA%E7%AD%94%E6%B1%97%E7%94%9F%E6%96%BC%E8%97%8F%E6%9B%86&printsec=frontcover. "①據蒙文抄本《俺答汗傳》第4頁上記載,俺答汗生於藏曆「火吉祥母兔年十二月三十牛日」。經北京圖書館藏曆專家黃明信先生驗證,此紀年無錯。他認為藏地各時代各教派使用的藏曆紀年不一,格魯派使用蒲派歷算,薩迦派使用薩迦派歷算。上述紀年如按蒲派推算,應為正德三年正月初一(合公元1508年2月1日);如按薩迦派推算,應為正德二年十一月三十日(合公元1508年1月2日)。因薩迦派歷算傳入蒙古最早,且影響深遠,直至清康熙元年(1662)成書的《蒙古源流》還使用薩迦派曆法。而《俺答汗傳》成書於明萬曆三十五年(1607),早於《蒙古源流》半個世紀,格魯派也剛傳入蒙古,故上述紀年當按薩迦派推算,應為正德二年十一月三十日(公元1508年1月2日)。" 
  2. ^ 楊紹猷 (1987年1月). 中國社會科學院民族研究所民族歷史研究室. ed. “〈太平卒年考〉” (中国語). 《民族史論叢‧第一輯》 (中華人民共和國: 中華書局有限公司): 第129頁. https://www.google.com.tw/books/edition/%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%8F%B2%E8%AE%BA%E4%B8%9B/jDlyAAAAIAAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&bsq=%E5%8F%88%E5%A6%82,%E3%80%8A%E6%98%8E%E5%8F%B2%C2%B7%E9%9E%91%E9%9D%BC%E4%BC%A0%E3%80%8B%E4%BA%91,+%E2%80%9C+(%E4%B8%87%E5%8E%86)%E5%8D%81&dq=%E5%8F%88%E5%A6%82,%E3%80%8A%E6%98%8E%E5%8F%B2%C2%B7%E9%9E%91%E9%9D%BC%E4%BC%A0%E3%80%8B%E4%BA%91,+%E2%80%9C+(%E4%B8%87%E5%8E%86)%E5%8D%81&printsec=frontcover. "第一,《明史》為了文字的簡練,往往作概括性的記述,有時將不同年代發生的事件記在同一年代之下,前一事件是因,後一事件是果,年代指的是後一事件發生的時間。又如,《明史·韃靼傳》云,「(萬曆)十年春,俺答死,帝特賜祭壇,彩幣十二表里,布百匹,示優恤。實際上萬曆十年春(《明神宗實錄》作十年二月)是明廷得到邊臣的報告後,下達「賜祭」的時間,並不是俺答汗的卒年。《萬曆武功錄》卷八和蒙文抄本《俺答汗傳》關於俺答的卒年記載完全一致,為萬曆九年(辛巳年)十二月十九日(即公元一五八二年一月十三日)。" 
  3. ^ a b c d 宮脇 2002, p. 153.
  4. ^ a b c 宮脇 2002, p. 154.
  5. ^ a b c 宮脇 2002, p. 174.
  6. ^ a b c d e f g h i 宮脇 2002, p. 155.
  7. ^ 宮脇 2002, p. 175.

参考資料

先代
-
トゥメト部のハーン
1551年 - 1582年
次代
センゲ・ドゥーレン・テムル・ハーン


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