アリューシャン列島からイルクーツクへとは? わかりやすく解説

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アリューシャン列島からイルクーツクへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:41 UTC 版)

若宮丸」の記事における「アリューシャン列島からイルクーツクへ」の解説

遭難時の若宮丸乗組員は、平兵衛、左太夫儀兵衛儀平)、吉郎次(吉郎治)、津太夫左平、銀三郎、民之助、辰蔵(辰兵衛、宅)、太十郎太十太平多十郎)、茂次郎(茂次平、茂治郎、茂三郎)、市五郎清蔵、八三郎初三郎)、善六、巳之助である。これらの16名はアリューシャン列島漂着した時点生存していた。若宮丸失った乗組員は、米300俵と手回り品携えて若宮丸伝馬船移乗し北西針路をとった。寛政6年6月5日乗組員は煙の立つ島を発見してここに上陸し、この島の住人救助された。この島は「ヲンデレッケオストロフ(ヲンデレッケ島)」とされている。救助の後の6月8日船頭の平兵衛病死した。 寛政6年6月12日若宮丸乗組員15名はロシア役人によってナアツカ島(アッカ島)へ連行され現地住民ロシア人助けられながらここで1年ほど過ごした。ナアツカ島にはラッコ漁の基地があり、その支配人のデラロフが若宮丸乗組員ロシア本土に連れて行くために船を出すことにした。これは、日本との貿易実現したいロシア政府意向受けてのものとされる1795年5月21日若宮丸乗組員乗せた船はナアツカ島から出航し、サンバショウ(サンハメウ)に寄港アムチトカ島停泊しカムチャツカ半島ロパートカ岬沖を進んで同年8月12日ロシア東部オホーツク入港した当時オホーツク毛皮流通経路になっていた町だった。 若宮丸乗組員オホーツク役人の家に50日ほど逗留したあと、シベリア南部の町イルクーツク3班分かれて移動することになった。まず儀兵衛善六辰蔵の第1班1795年9月30日イルクーツクから出発ヤクーツク経由して1796年3月4日イルクーツク到着した。第1班イルクーツク到着から数箇月後、左太夫左平、銀三郎、茂次郎太十郎の第2班吉次郎、津太夫、民之助、清蔵、市五郎、八三郎、巳之助の第3班がそれぞれオホーツク出立した第3班の移動の中で市五郎ヤクーツク病没した。第3班がイルクーツク到着したのは1797年1月だった。

※この「アリューシャン列島からイルクーツクへ」の解説は、「若宮丸」の解説の一部です。
「アリューシャン列島からイルクーツクへ」を含む「若宮丸」の記事については、「若宮丸」の概要を参照ください。

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