アリューシャン列島からイルクーツクへ
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「若宮丸」の記事における「アリューシャン列島からイルクーツクへ」の解説
遭難時の若宮丸の乗組員は、平兵衛、左太夫、儀兵衛(儀平)、吉郎次(吉郎治)、津太夫、左平、銀三郎、民之助、辰蔵(辰兵衛、宅蔵)、太十郎(太十、太平、多十郎)、茂次郎(茂次平、茂治郎、茂三郎)、市五郎、清蔵、八三郎(初三郎)、善六、巳之助である。これらの16名はアリューシャン列島に漂着した時点で生存していた。若宮丸を失った乗組員は、米300俵と手回り品を携えて若宮丸の伝馬船に移乗し、北西に針路をとった。寛政6年6月5日に乗組員は煙の立つ島を発見してここに上陸し、この島の住人に救助された。この島は「ヲンデレッケオストロフ(ヲンデレッケ島)」とされている。救助の後の6月8日に船頭の平兵衛が病死した。 寛政6年6月12日に若宮丸の乗組員15名はロシアの役人によってナアツカ島(アッカ島)へ連行され、現地の住民やロシア人に助けられながらここで1年ほど過ごした。ナアツカ島にはラッコ漁の基地があり、その支配人のデラロフが若宮丸の乗組員をロシア本土に連れて行くために船を出すことにした。これは、日本との貿易を実現したいロシア政府の意向を受けてのものとされる。1795年5月21日、若宮丸の乗組員を乗せた船はナアツカ島から出航し、サンバショウ(サンハメウ)に寄港、アムチトカ島に停泊し、カムチャツカ半島のロパートカ岬沖を進んで同年8月12日にロシア東部のオホーツクに入港した。当時のオホーツクは毛皮の流通経路になっていた町だった。 若宮丸の乗組員はオホーツクの役人の家に50日ほど逗留したあと、シベリア南部の町イルクーツクへ3班に分かれて移動することになった。まず儀兵衛、善六、辰蔵の第1班が1795年9月30日にイルクーツクから出発、ヤクーツクを経由して1796年3月4日にイルクーツクへ到着した。第1班のイルクーツク到着から数箇月後、左太夫、左平、銀三郎、茂次郎、太十郎の第2班、吉次郎、津太夫、民之助、清蔵、市五郎、八三郎、巳之助の第3班がそれぞれオホーツクを出立した。第3班の移動の中で市五郎がヤクーツクで病没した。第3班がイルクーツクへ到着したのは1797年1月だった。
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