アックアヴィーヴァ家の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 09:34 UTC 版)
「コンヴェルサーノ」の記事における「アックアヴィーヴァ家の支配」の解説
1455年、ジョヴァンニ・アントニオ・デル・バルツォ・オルシーニ (Giovanni Antonio Del Balzo Orsini) が没すると、娘のカテリーナが所領を相続した。カテリーナの夫が、アトリの公爵であったジュリオ・アントニオ・アックアヴィーヴァ (Giulio Antonio Acquaviva) である。以後、アックアヴィーヴァ家 (it:Acquaviva (famiglia)) が代々コンヴェルサーノ伯を継承し、19世紀初頭までこの地方の封建支配を行った。 ジュリオ・アントニオは1481年、オスマン帝国とのオトラントの戦いで落命した。17世紀前半のコンヴェルサーノ伯ジャンジローラモ2世 (it:Giangirolamo II Acquaviva d'Aragona) は勇猛な武人、芸術家のパトロン、そして暴君として多くの逸話が語られる人物であり、荘園領主としてはアルベロベッロの開発で知られる。 コンヴェルサーノ伯は馬の飼育場(スタッド)を所有しており、バルブ種とアンダルシア馬の流れを汲む黒いネアポリタン種 (Neapolitan horse) を育成していた。雄羊のような強い頭、短い背、太い飛節が特徴であった。1767年に生まれた馬「コンヴェルサーノ」は、リピッツァナーと呼ばれる馬種を生み出す種牡馬の一頭である。 1690年、町はペストにより多くの犠牲者を出した。1806年に封建制は廃止された。
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