アシスタントコーチから監督へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:59 UTC 版)
「パット・ライリー」の記事における「アシスタントコーチから監督へ」の解説
引退後、ライリーはロサンゼルス・レイカーズ戦の放送で試合を解説する職を得、伝説的なアナウンサー、チック・ハーンとともに仕事をした。解説者を2年間続けた後の1980年、当時レイカーズの監督だったポール・ウェストヘッドに声をかけられ、同チームのアシスタントコーチの役職に就いた。 レイカーズはカリーム・アブドゥル=ジャバーやマジック・ジョンソンを擁し、1980年には優勝を経験していたチームで、リーグ屈指の強豪になる可能性を持っていた。翌1980-81シーズンには54勝28敗の成績で、プレイオフではマジック・ジョンソンの不調もあって1回戦でヒューストン・ロケッツに敗退した。このシーズンを制したのは、80年代を通じてレイカーズのライバルとなるボストン・セルティックスだった。 ライリーが脚光を浴びることになったのは次の1981-82シーズンだった。開幕当初、レイカーズは7勝4敗とそれほど悪くない滑り出しだったが、監督のウェストヘッドが突如解雇された。ウェストヘッドは速攻よりも緻密に計算されたオフェンスを重視するようになっており、それに不満だったマジック・ジョンソンはマスコミを通じウェストヘッドの指導方針を非難していた。突然の異動でチームが混乱する中、ライリーは監督に昇進した。 監督に就任したライリーは、以前の速攻主体のオフェンスを徐々に取り戻していった。そしてこのスタイルがのちのちライリーに不動の評価を与えることになった。 このシーズン、ライリーが指揮を執って以降のレイカーズは50勝21敗と上々の成績で、シーズンを終えて57勝25敗だった。レイカーズはNBAファイナルに進み、フィラデルフィア・セブンティシクサーズを4勝2敗で下し、80年代で2度目の優勝を手にした。ライリーにとって、監督としては初めての優勝だった。
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