アイユーブ朝の宮殿・浴場
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「アレッポ城」の記事における「アイユーブ朝の宮殿・浴場」の解説
アイユーブ朝は当初、宮殿を城塞上には築かなかった。城塞に構築されたガーズィーの「栄光の宮殿」(英: "Palace of Glory")は、1212年、彼の結婚式の夜に焼失したが、宮殿は1230年、支配者アル=アズィーズ (al-Aziz) により再び建てられた。その後、モンゴルの侵攻によりかなり破壊されたものの、今日でも城塞の頂上部で最も重要かつ印象的なモニュメントの1つとしてある。アイユーブ朝時代の建築の部分装飾として、石灰岩と玄武岩による縞模様に、ムカルナスないしハチの巣状ヴォールト造りを備えた正門入口や、タイルを張った4イーワーン式の中庭など数多く残っている。 宮殿の浴場(ハンマーム)は、伝統的な中世イスラーム様式に配置されており、3つの部分をもつ。1つは着衣や脱衣そして休憩のために使われた。また1つは加熱されないが暖かい部屋で、ここには温熱室ともう1つのアルコーブ(英語版)(壁の窪み)を備えた蒸気室(蒸し風呂)が続いていた。温水や冷水は、土管を通して浴場に送られた。
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