『論衡』における倭人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:21 UTC 版)
後漢代の1世紀ころに成立した王充著『論衡』には「倭人」の名がみえる。以下に、本文を記す。 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず「成王時 越常獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。 このように倭人が周王へ暢草(薬草)を献上したという記述があり、早ければ武王紀元前11世紀末頃、記述のある成王とすれば紀元前10世紀頃の出来事である可能性がある。越裳(えつしょう)または越常(えつじょう)はベトナムあたりにあった国とされている。 近年の倭人論ではこの鬯草(ちょうそう)をウコンではないかと推定し、ここで記述された倭人は日本列島の沿岸漁労民でなく、江南や華南の山人であったとする説もある。
※この「『論衡』における倭人」の解説は、「倭人」の解説の一部です。
「『論衡』における倭人」を含む「倭人」の記事については、「倭人」の概要を参照ください。
- 『論衡』における倭人のページへのリンク