『宋史』における日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 10:00 UTC 版)
『宋史』では日本は巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七において「流求」国の少し後で触れられている。奝然が太宗に献上した『王年代紀』から引用して、天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。周の釐王の甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、『日本書紀』では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。当時は歴代に加えられていなかった弘文天皇と淳仁天皇のうち、弘文天皇は記されていないが、淳仁天皇は「天炊天皇」と記し、神功皇后を「神功天皇」と記して歴代に加えているため、円融天皇を第64代とする現在の数え方と一致する。また日本が中国で滅失したものも含め多くの漢籍を蔵していることはこの頃から知られていたようで、「其國多有中國典籍」という記載も見える。記述は南宋の寧宗の嘉泰2年(1202年)の記事までで終わっている。
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