『創世記』外での解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 06:14 UTC 版)
「メルキゼデク」の記事における「『創世記』外での解釈」の解説
メルキゼデクの名前は『創世記』だけでなく、『詩篇』においてもわずかながら触れられている。 主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従ってあなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)。」 — 『詩篇』 110:4、新共同訳 注釈家の多く[誰?]はこの章句を、メルキゼデクの名前が隠喩として用いられることで、イスラエルの王による磐石な王権が象徴されていると見ている。また、この詩をユダの王ヨシャファトと関連付ける者もいる[誰?]。 ハザルはメルキゼデクとセム(ノアの息子)を同一人物と見なし(セムはアブラハムの9代前の先祖であるが創世記の記述から逆算するとセムはアブラハム死亡時にはまだ存命であった)、セムからアブラハムに祭司職が譲られたと考えている(『ネダリーム』 32.2 『ベレシート・ラッバー』 50.6)。また、ミドラーシュによれば、エルサレムという都市名の決定においてもメルキゼデクは重要な役割を果たしているという。エルサレムには後に「神殿の丘」と呼ばれる山があったのだが、その山はイサクの燔祭が行われた場所とされている。アブラハムはその山を畏怖心を込めて「イェラエ」(畏怖)と名付けている。一方のメルキゼデクは「サレム」(平和)と呼んでおり、この両者が結び付いて「エルサレム」という名称が完成したとされている。 アレクサンドリアのフィロンは、メルキゼデクの姿の中にロゴスの顕現を見ている。初期のキリスト教徒もその観点を継承し、ロゴスたるメルキゼデクを、父も母もいなければ初めも終わりもない正義の王、平和の王、そして永遠の祭司として理解していた(『ヘブライ人への手紙』)。
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