"ルートヴィヒ" 死亡記事
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「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「"ルートヴィヒ" 死亡記事」の解説
ウィキソースにルーファス・グリスウォルドによるポーの死亡記事の原文があります。 ポーの死後、グリスウォルドは"ルートヴィヒ"という筆名を使った死亡記事を準備した。「ニューヨーク・トリビューン」の1849年10月9日版で最初に掲載され、その後何度も掲載された。そこでは、ポーには友人が少なかったので、「悲しむ者が少ない」と主張していた。ポーは、「狂気か憂鬱か」で度々街を徘徊しており、独り言を言い、自身を呪い、すぐイライラし、他人を妬み、「社会を悪人で構成されていると見なしていた」と主張した。ポーの成功要因は、彼が「その虚栄心を傷つけた世界を軽蔑する権利」を求めたからだと、記していた。ポーに関するこの性格描写の大半は、エドワード・ブルワー=リットンの小説『カクストンズ』の登場人物フランシス・ビビアンのセリフをほとんど逐語的に移したものだった。 グリスウォルドの伝記作者ジョイ・ベイレスは、グリスウォルドがその死亡記事で関係を隠すために筆名を使ったのではなく、新聞や雑誌に寄稿する時はそうするのが習慣だったから筆名を使ったと記していた。それでも筆者がグリスウォルドであることはすぐにばれた。1849年12月17日付サラ・ヘレン・ホイットマン宛ての手紙で、「私は彼の友人ではなく、彼も私の友人ではない」と、ポーの死亡記事でのその役割を認めていた。
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