9月30日事件
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中国共産党と事件の関係
毛沢東との関係
事件は、毛沢東の武装闘争・農村が都市を包囲する・人民戦争理論という毛沢東思想の影響がみられ、中国共産党が事件に関与していると事件直後からインドネシア当局から指摘されており、CIAは関与を示唆しているが[9]、中国共産党当局は関与を否定、中華人民共和国の公文書が公開されていないことから現在のところ物証は存在しないが、スカルノの特使である鄒梓模は事件前に、周恩来から緊急援助と武器の引き渡しがあったことを証言しており[9]、毛沢東は周辺の東南アジア諸国の友党である各国共産党に武装蜂起による革命を積極的に推奨し、それらが9月30日事件の背後にあったことは事実である[10]。
周陶沫(南洋理工大学教授)が中国外交部の外交文書からCIAが注目していた毛沢東、劉少奇、周恩来、鄧小平、彭真、陳毅、康生などの首脳が、北京訪問中のディパ・ヌサンタラ・アイディットから、事件直前の1965年8月5日に計画を事前に打ち明けられていた会談内容を記録した文書を発掘したが、毛沢東は国共合作と国共内戦の経験を語り、和戦両にらみで準備を進めるべきだとアイディットに伝えた[9]。
もともとインドネシア共産党と中国共産党は国際共産主義統一戦線の友党関係にあり、1950年代後半から始まった中ソ対立の中でもインドネシア共産党はソビエト連邦寄り或いはソ連と中華人民共和国の等距離関係にあったが[11]、1963年にインドネシア共産党はソ連から中華人民共和国寄りへとシフトし、中国共産党の革命路線と毛沢東思想を鮮明に打ち出した。
インドネシア共産党と中国共産党は兄弟党の関係となり、アイディットは林彪の人民戦争理論を先取りする理論を打ち出し、スカルノは中華人民共和国とインドネシア共産党に接近し、中華人民共和国はスカルノが推進するコンフロンタシ(インドネシアの対マレーシア強硬政策)、国連脱退、新植民地主義批判を高く評価し、中華人民共和国は1965年にスカルノに武装農民と労働者から結成される第五軍(陸軍・海軍・空軍・警察に続く5番目の武装した労農人民軍)設置を持ち掛けたが、それはインドネシア陸軍とインドネシア共産党の対立の先鋭化を招いた[12]。さらに事件の数時間前には、インドネシアの核開発計画に対して、前年にアジア初の核保有国となった中華人民共和国が協力する意向を毛沢東はスカルノに伝えていた[13][14]。
9月30日後
1965年12月11日に事件の失敗が毛沢東に伝えられた際に、「かえってこれはいいことなのだ、なぜならインドネシア共産党はここから武装闘争を展開できるからだ」、「インドネシア革命が失敗したと思うな」と明言し、インドネシア共産党は毛沢東の勧告を聞き入れて「山に登る」ことになるだろうと嬉しそうにしていたという[10]。1966年3月の日本共産党訪中団に対して毛沢東は、事件を「インドネシア共産党の武装蜂起」と呼んで、事件の失敗の責任はインドネシア共産党にあり「スカルノを妄信し、軍内部における党の力を過信した」、「動揺し、最後まで戦い抜かなかった」と主張し[10]、事件を武装闘争による革命路線からすれば不徹底な革命として批判した[15]。
事件鎮圧後にインドネシア共産党員が粛清された後の1967年に西カリマンタン州で勃発した西カリマンタンサラワク連合部隊(火焔山部隊)による武装闘争は、中華人民共和国の文化大革命や紅衛兵の影響を受けたものであり[12]、火焔山部隊は、毛沢東の著作や中国共産党の理論誌『紅旗』を読んで思想教育を行い、中国共産党下のメディアは、「毛沢東の正しい革命路線と毛沢東・林彪の人民戦争理論を継承するもの」として、火焔山部隊の遊撃戦を国際ニュースとして宣伝した[16]。
中国共産党は、事件時に北京に滞在していたインドネシア共産党員や、事件後に北京に庇護を求めてきたインドネシア共産党員を保護するなど、インドネシア共産党の亡命党員の受け入れなどの各種支援を行い、解体したインドネシア共産党は、中国共産党主導の国際共産主義統一戦線のもとに再建され、インドネシア共産党の難民輸送船の帰着港の広東省湛江市や海南島では、インドネシアに帰国する華僑に対するインドネシア共産党の幹部養成訓練が行われた[17]。また、新たに中華人民共和国に来たインドネシアの青年のなかには、文化大革命中に紅衛兵に加わった者もおり、南京軍官学校には1967年に100人程度のインドネシア共産党員がおり、文化大革命中に批判大会や毛沢東思想の学習会に出席し、遊撃戦の訓練が行われた[18]。
- ^ 西村眞悟は、この事件の最大の原因として、インドネシアに共産主義政権を樹立しようという中国共産党の意向があり、中華人民共和国の首相であった周恩来がクーデターの謀略を主導していたと主張しているが出典:西村眞悟の時事通信バックナンバー 平成17年(2005年)5月23日付。なお、ユン・チアンも著書『マオ』の中で、類似の指摘をしている。
- ^ 事件が9月30日に起きたのも、翌10月1日の中華人民共和国建国記念日で、同国首脳の周恩来がインドネシアに新たな共産党政権が樹立できたことを天下に発表できるタイミングを狙ったとされる。
- ^ CIAは9・30事件の報告書でジャカルタを「クーデターに理想的な都市」と報告しており、事件から8年後の1973年に発生したチリのアウグスト・ピノチェトによるクーデター(チリ・クーデター)を「オペレーション・ジャカルタ」と呼称している。
- ^ “インドネシア “埋もれた虐殺”語り始める”. NHK. (2015年6月10日) 2015年6月13日閲覧。
- ^ “虐殺者は、なぜ喜々として殺人を「再現」したのか? 映画「アクト・オブ・キリング」が映す人間の闇”. NewSphere. (2014年4月11日) 2015年6月13日閲覧。
- ^ Roosa, 2006.
- ^ Sulistyo, 2000.
- ^ “Transforming Taiwan-Indonesia Ties In 21st Century: New Challenges – Analysis”. Eurasian Review (2018年5月3日). 2019年7月19日閲覧。
- ^ a b c 馬場公彦 2016, p. 16
- ^ a b c 馬場公彦 2016, p. 20
- ^ 馬場公彦 2016, p. 25
- ^ a b 馬場公彦 2016, p. 17
- ^ 吉村英輝 (2016年6月2日). “毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光”. 産経新聞. オリジナルの2021年2月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ 吉村英輝 (2016年6月2日). “毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光”. 産経新聞. オリジナルの2018年7月31日時点におけるアーカイブ。
- ^ 馬場公彦 2016, p. 27
- ^ 馬場公彦 2016, p. 23
- ^ 馬場公彦 2016, p. 21
- ^ 馬場公彦 2016, p. 22
- ^ 2014年アジアフォーカス・福岡国際映画祭公式サイト
- ^ “デヴィ夫人、インドネシア大虐殺の真実を暴いた米監督に感謝「真実は必ず勝つ」”. eiga.com (eiga.com). (2014年3月25日) 2014年4月27日閲覧。
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