藤井システム 変遷

藤井システム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 18:15 UTC 版)

変遷

振り飛車党の減少

藤井システムが広く知られるようになる前、居飛車側は対振り飛車戦において急戦に自信がない場合、左美濃居飛車穴熊で玉を固く囲う戦法が有効とされていた。これらの囲いは振り飛車側の美濃囲いと堅さが同じかそれ以上で、しかも持久戦模様になると居飛車側からのみ仕掛けの権利があった。これに対して振り飛車側の有力な対策がなく、振り飛車を指す棋士が減少した。青野照市はこの頃の状況を、森下卓の言葉を引用して「矢倉の研究が忙しいから、振り飛車には穴熊と左美濃を交互にやってればいいんだ」と表現した[4]。藤井自身も「居飛車党は矢倉の研究が忙しいので、振り飛車には左美濃と居飛車穴熊を交互にやっておけばいい、という言葉があったくらいだ」と当時を回顧し述懐している。

振り飛車(四間飛車)党であった藤井も居飛車穴熊と左美濃への対応には苦慮し、対左美濃戦において振り飛車側も銀冠を見せて、その囲いの途中(2七銀・3九玉・4七金・4九金の状態)で飛車を右翼に戻して左美濃の玉頭に殺到する構想を試したことがある(1995年全日本プロ将棋トーナメント(のちの朝日オープン将棋選手権)、藤井猛行方尚史戦)。この将棋は河口俊彦の『新対局日誌』に取り上げられており、藤井はこの構想を林葉直子が指していたものだとしている[5]。これは藤井システムが登場する前の将棋であるが、左美濃の玉頭を攻める構想は共通している。

△持ち駒 なし
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△持ち駒 銀歩3
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参考局面1は左美濃対四間飛車の一変化で、初出は1993年10月1日のJT将棋杯 日本シリーズ、先手郷田真隆対後手羽生善治戦である。後手羽生の△7三桂-7一玉型に、先手郷田が▲7五歩と仕掛けた有名な局面。△同歩とさせてから▲2四歩△同歩▲同角とし、以下の手順を示すと、△2二飛▲3三角成△2八飛成▲1一馬△7四飛▲7六歩△同歩▲同銀△7五歩▲同銀△同飛▲7六歩△7四飛▲7五香△同飛▲同歩△2九竜▲7四歩△7五桂▲7七玉△8七銀▲6八玉△7八銀成▲同金△8九竜▲8三銀以下、先手の郷田が勝つ。長手数示しても、一連の手順はほぼ変化の余地がないとされ、この一局は局後の検討でも、その後の研究でも、先手勝ちと結論づけられたというが「この結論を覆さない限り、後手番で左美濃相手に指す手がない」と藤井は振り返っており、この将棋を詰みまで研究した結果、1年後の94年10月2日に新手を現した。棋聖戦の先手室岡克彦対藤井猛戦で、藤井は前記手順の△8九竜に代えて研究手△7六香と打ち(参考局面2)、以下▲7七桂△6九銀▲7三歩成△同銀▲5五馬△7二歩▲7四桂△7八銀成▲5七玉△8三金以下、後手藤井が勝っている。最後の△8三金も藤井の研究手で、その後、図の局面は公式戦で現れていない。

この一局を島朗九段が当時の将棋雑誌に「藤井君が指す四間飛車は藤井システムといえる」と書いた。藤井システムという言葉が現れた瞬間として知られる。その後藤井システム一号局とされる後述の藤井猛対井上慶太戦、95年12月22日の順位戦B級2組につづく。

△持ち駒 なし
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対左美濃の藤井システム

前述のとおり本来の藤井システムは左美濃に対抗するための研究であった。左美濃、特に天守閣美濃は、その特異な形から振り飛車にとって攻略が難しかった。

飛車先を突破した後は横から攻めることになるが、振り飛車側の玉が一・二段目にいるのに対して、居飛車側の玉は三段目にいるため、攻め合いになると手数で負けることが多い。そこで天守閣美濃の攻略にあたり、横からではなく、弱点である玉頭を狙った縦からの攻めを織り交ぜるようになった。

先手の場合、玉を3九に配置させてから▲4五歩として相手に理想的な4枚高美濃に組ませないようにし、▲2六歩から玉頭を狙って攻める。ただし▲2六歩を早く決めてしまうと△5三角から狙われるので、振り飛車側としては周到さが必要である。例えば島朗がNHK杯で後手藤井システムに▲5七角から強引に高美濃に組み、桂頭を狙って勝利している。

振り飛車側としては右図からよくある形では▲5六歩と突き、三間飛車に転換した後▲6八角と引いて相手の玉頭に利きを直通させ、右桂とともに攻める。

この他に7七角のままで単に▲2五歩△同歩▲同桂とする手段も実は厳しく、角が3一にいないと銀を2二に引けず(▲2四歩がある)角道が通っている分、居飛車側が常に気を使う展開になる。この順では先手振り飛車側も4五の位を取らずに後手居飛車側に△4三金型の高美濃に組ませた方が▲2五歩△同歩▲同桂△2二銀にそこで▲4五歩△同歩▲4四歩の際に当たりがちかくなって厳しい。

これは非常に完成された戦法であり、対四間飛車に高く構える左美濃自体がプロの対局ではあまり見られなくなっている。

対穴熊の藤井システム

△持ち駒 なし
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△井上慶太 持ち駒 歩
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藤井は相手の穴熊模様の将棋において杉本の指し方をヒントに前述の1992年銀河戦の神崎戦で、▲3九玉-3八銀型に構えて▲3七桂から2五桂、そして▲4五歩と角の利きで攻める指し方を披露しているが、こうした藤井システムに類似した居飛車穴熊に対する振り飛車の仕掛けでは、羽生善治の例が知られる。1995年10月の全日本プロトーナメント、▲真田圭一対△羽生戦で、後手の羽生は四間飛車△7一玉-7二銀型から△7三桂に構え、△4五歩~6五歩の急戦を仕掛けている。また、出雲大社で行われた 1995年11月の竜王戦第3局、▲佐藤康光対△羽生戦では前記同様の△7一玉-7二銀型に△9三桂~8五桂で7七の角をどかして戦端を開く指し方をみせている。

この他、藤井が穴熊に対してシステムを指す前に、久保利明井上慶太相手に類似の戦型を一週間前に指しており、久保は奨励会時代に▲4八玉型で▲2五桂からの端攻めを愛用していたという。

藤井が穴熊相手に初披露したのは、1995年12月22日の順位戦B級2組対・井上慶太戦であり、47手の短手数で井上を投了に追い込んだ(右図は途中図)[注 3]。この時穴熊は早くの▲3七桂上がりから▲4五桂の筋を警戒した△6二銀型で、この穴熊について藤井は独自に研究をしていた。

△羽生善治 持ち駒 なし
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しかしすぐに有名になることはなく、1997年度のNHK杯戦屋敷伸之羽生善治に対して類似の形を指したときは、羽生が自玉のコビンを攻められ思うように居飛車穴熊に組めずに長考し、解説の田中寅彦もうなったが、ようやく指した羽生の次の一手は△3二玉と戻す手であった[注 4]

1998年、藤井はこの戦法を用いて谷川浩司から竜王位をストレートで奪取する。振り飛車は将棋界で息を吹き返し、さらには、ほかの振り飛車の戦法も指されるようになった。

現在「藤井システム」で主流となっている変化は、居飛車穴熊への新たな研究として現れた、言わば新バージョンである。居飛車穴熊が完成する前に角筋を頼りにした縦からの攻めを軸として速攻を仕掛ける体勢と、居飛車側が急戦に持ち込んだときの対策の、両方を兼ね備えた作戦となっている[注 5]。先手の場合、1筋のを突き越し居玉のまま速攻を仕掛ける体制を整え、△1二香と穴熊に囲おうとしたら、▲2五桂から▲4五歩と角筋を通して攻めるが、後手が急戦を仕掛けてきたら▲4八玉から▲3九玉と美濃囲いに移行するというものである。

ここまでの順は駒組みが特徴的なため、真似るのは容易であると思われがちだが、指しこなすのはプロでも非常に難しく「藤井でないと藤井システムは指せない」と言われることもある。


注釈

  1. ^ 藤井は1998年度のNHK将棋講座で本戦法の解説を行い、その直後に谷川浩司から竜王位を無敗で奪取。
  2. ^ 「画期的。この戦法がすごいのは、藤井さんがひとりでシステムを構築したこと」(佐藤康光)「右の銀桂香を攻めに使うという画期的な構想。将棋界の流れを大きく変えた戦法」(谷川浩司)「凄い発想。創世期には藤井さんとよく当たり、負かされました(笑)。優秀さを身をもって体感」(深浦康市)「振り飛車側が居玉で戦うという発想は思いつかなかった居飛車側の急戦策や、その他の持久戦に対応するアイデアをひとりで作り上げたのは驚異的だ」(室岡克彦)「連常の新戦法は誰かのアイデアに対し、追走者が現れることで構築されていきます。藤井システムの特異な点は、第1期竜王戦に見られるように、すでに完成されたひとつの分野として提示されたことです。藤井さん独自の研究量·新手の多さでも際立っており、今後このような新研究は現れないのではないでしょうか」(飯塚祐紀)などで、若手棋士に振り飛車党が多いのは、間違いなくこの戦法の影響である、という指摘も数多く寄せられた。「奨励会有段者時代に大流行していた戦法。おかげさまで卒業することができました」(島本亮)「振り飛車の大革命。この戦法のおかげでプロになった棋士も多いはずです」 (長岡裕也) 「世代が大きな影響を受けた戦法。みんな、狂いそうなほど研究しました。将棋の才能という面では、藤井九段が現役で一番ではないかと思います」(大平武洋)
  3. ^ 井上は「おかげで第一号局の犠牲者と、この将棋が有名になった」といっていたが、この年度の順位戦の敗戦はこの局のみで、他は全勝して昇級する一方、藤井は後手番でのシステムで苦戦し、昇級までにあと五期を要している。
  4. ^ 田中寅彦(居飛車穴熊を得意としていた)は、「何か変だな」と何度もうなった。羽生の△3二玉を見て、司会・聞き手の藤森奈津子は思わず「あ!戻った!」と声を上げた。
  5. ^ 藤井猛『最強藤井システム』(1999年)によれば、▲1五歩と端に2手かける手は急戦相手だと緩手になると考えられがちであるが、終盤で自玉が広い(端に逃げ道が広く空いている)ため、十分戦えるとされている。
  6. ^ 決勝トーナメントでは先手番、後手番共にすべて藤井システムを用いた。
  7. ^ 後手番の羽生善治王座が挑戦者の糸谷哲郎八段に対し採用。糸谷が巧みに対応し一時は優位に立ったが、終盤で羽生が逆転勝ちをおさめた。
  8. ^ 初号局における佐藤天彦の対策でもある。その後佐藤康光が2016年度NHK杯戦決勝において類似形を佐藤和俊に対して採用した際、佐藤和俊は△2二飛と受けずに戦い不利となったが、後に▲2四歩の仕掛けを失念していたと語った。

出典

  1. ^ 将棋大賞受賞者一覧|棋士データベース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2018年9月16日閲覧。
  2. ^ 『将棋年鑑2018 棋士名鑑アンケート』の「登場したときに最もびっくりした戦法はなんですか?」でも多数の棋士が「藤井システム」を挙げている。棋士をも驚愕させた新戦法とは!?”. マイナビ将棋情報局. 2023年2月4日閲覧。
  3. ^ 勝又清和『最新戦法の話』(浅川書房、2007年、ISBN 978-4-86137-016-8)、108ページ。2006年春までのデータである。
  4. ^ 将棋世界』2007年9月号、「新手魂」23ページ。青野照市勝又清和上野裕和による対談より。
  5. ^ 河口俊彦『新対局日誌 第八集 七冠狂騒曲(下)』(河出書房、2002年、ISBN 4-309-61438-8)、12 - 15ページ。
  6. ^ 1998年度竜王戦第2局の谷川など。
  7. ^ 対談:瀬川晶司六段×今泉健司四段「B級戦法は こんなに楽し」(『将棋世界Special 将棋戦法事典100+』(将棋世界編集部編、マイナビ出版)所収)
  8. ^ 後手番については勝又『最新戦法の話』90 - 94ページ、先手番については同書118ページ。
  9. ^ 週刊将棋』2008年8月6日、7ページ。
  10. ^ 勝又『最新戦法の話』116ページ。
  11. ^ a b 元竜王・藤井猛九段、藤井聡太新竜王を語る「藤井さんに新戦法は要らない」”. スポーツ報知 (2021年11月14日). 2023年10月29日閲覧。





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