竹垣悟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/26 23:48 UTC 版)
竹垣悟 TAKEGAKI SATORU | |
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誕生 |
1951年3月21日 兵庫県姫路市 |
職業 | 特定非営利活動法人五仁會代表、ノンフィクション作家 、コメンテーター 、YouTuber |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 2012年より |
公式サイト | 特定非営利法人『五仁會』 |
略歴
- 1951年に兵庫県姫路市魚町の隣の塩町で生まれ育つ。俳優に憧れ17歳で上京。1968年頃から、東映東京撮影所で、20歳手前の1971年頃まで大部屋俳優として過ごす。しかし、喧嘩のスキャンダルで東映を去る[2]。
- 初代竹中正久組長時代に組長秘書、竹中武組長の下で若頭補佐、中野会若頭補佐、古川組舎弟頭補佐を歴任する。
- 1980年から、兵庫県姫路市塩町118番地に本部を置く山口組系「義竜会」の会長を務めた。
- 2005年に初代古川組組長が引退すると二代目古川組の盃を拒否して破門処分となり、義竜会を解散して堅気となる。
- 2012年01月20日に暴力団員の更生を支援する特定非営利活動法人「五仁會」を設立して同会の代表となる[1]。
人物
俳優に憧れ17歳で上京。1968年頃から、東映東京撮影所で、20歳手前の1971年頃まで大部屋俳優として過ごす。東映東京撮影所大部屋時代に若山富三郎に付き人として仕え、鶴田浩二や菅原文太などの任侠映画に出演する。その頃、帰郷した際に喧嘩で逮捕される。これがたまたま警察にいた神戸新聞社の記者の耳に入り、「東映俳優のスキャンダル」としてマスメディアで大々的に報道され、東映を去る。東映時代にも、スタッフをコーラの瓶で殴るなど喧嘩っ早かった。その後、姫路に戻ると母親が経営するクラブで集金を担当する。その間に、東映京都撮影所の演技事務に電話し、若山富三郎のスケジュールを聞き出す。若山が撮影のため、伊豆三島にいることを知り、友人らとともに車で会いに行く。そこで若山が竹垣を見つけ、個人的に面倒を見るので京都に来いと声をかけられるが、付き合っていた女が姫路を離れるのを嫌がったため、姫路でクラブの仕事を続けながら竹中組にいた友人の足を洗わせるために活動していた最中に、頭長であった坂本義一と知り合い、その人柄に惚れ、ミイラ取りがミイラになるように、21歳の1972年頃に坂本会の暴力団員となる。その翌日、竹中正久(後の四代目山口組組長)から名前で声をかけられ感動する。バブル期には不動産の地上げなどで利益を上げるが、通常は儲けても使ってしまうやくざが多い中、その堅実な性格から散財せず過ごす。妻は同級生で35歳の出所を機に結婚。曲折の末、足を洗うが、5回懲役をしたことなどでやくざをしてよいことは何もなかったと話している。現在は、暴力団の解説者の第一人者として活動。YouTubeチャンネル[1]も開設[2]。
政治団体「自由民政党」の代表でもある。
受賞
- ^ a b 「五仁會」ウエブサイトを参照
- ^ a b “竹垣悟/山口組系「義竜会」会長/抗争・監禁で5度の刑務所/バブル闇競馬で荒稼ぎ/警察とヤクザの繋がり…”. 街録ch〜あなたの人生、教えて下さい(三谷三四郎). 2022年12月22日閲覧。
- ^ 作田明記念財団ウエブサイトを参照
- 竹垣悟のページへのリンク