本町 (弘前市) 地理

本町 (弘前市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/04 18:00 UTC 版)

地理

東部を青森県道28号岩崎西目屋弘前線が縦断し、町域の北部は元大工町元長町親方町、東部は鍛冶町、南部は相良町、南西部は在府町、西部は覚仙町森町に接する。

歴史

  • 正保3年(1646年) - すでに町屋として町割りがされている(津軽弘前城之絵図)。
  • 慶安2年(1649年) - 鍛冶町とあり、70軒あまりの屋敷があり、そのうち53軒は鍛冶とあり、5丁目の南部(現在の桶屋町寄り)が銅屋町とされ、銅屋19軒(弘前古御絵図)。
  • 万治2年(1659年) - 5丁目が全部銅屋町とされる(津軽弘前古絵図)。
  • 寛文13年(1673年) - 銅屋町の記載が見られず、代わりに1丁目の在府町寄りが鍛冶町横町と見える(弘前中惣屋敷絵図)。
  • 延宝5年(1677年) - 1丁目は横鍛冶町、2~4丁目は長鍛冶町と変化し、五丁目は変わらず銅屋町(弘前惣御絵図)。
  • 宝永2年(1705年) - 城下町割りによって本町1~5丁目になる。現在の元大工町・塩分町から在府町に南進する町並みが1丁目、現在の本町を東西に横断する町並みが2~4丁目、現在の本町の東側、青森県道28号岩崎西目屋弘前線沿いが5丁目と呼ばれ、現在まで「エ」の字型の町並みを形成。以降、鍛冶・銅屋が現在の鍛冶町・銅屋町に移転し、本町1~5丁目となり(平山日記)、本町は職人町から商家街になる。
  • 宝暦4年(1754年) - 宝永5年(1708年)から延享元年(1744年)にかけての大火事で多くの商家が焼失。なんとか復興するが、多くは経営困難に。そこで弘前藩は当町以外での商売販売を禁止。この政策により町内で出店する商人が増え、活気を取り戻す(平山日記)。隣接する元長町からも商人が移転
  • 宝暦6年(1756年) - 家数100のほかに、相場会場が置かれる(本町支配町屋鋪改大帳)。
  • 明治初年 - 戸数172で、弘前の代表的な商家街であった(国誌)。
  • 1907年(明治40年) - 交通事情の変化(奥羽本線青森弘前間開通)、陸軍第8師団の設置による人口増加、購買力の変化等の影響で、中心商店街地位土手町に譲り、次第に衰退

沿 革

地名の由来

  • 本鍛冶町の略称から。
  • しかし、町奉行の申し立てによると、"本町"ではなく"本通"とする案もあった(国日記)。

施設

教育

  • 弘前大学医学部
  • コミュニケーションセンター

医療

消防

商業

  • 明治屋グランドビル
  • ニュー明治屋センター
  • 北星交通
  • エルク弘前
  • 東北電力弘前営業所

宿泊

通信

行政

  • 弘前税務署



  1. ^ a b オープンデータひろさき 弘前市 町名別人口・世帯数_平成29年” (日本語). ひろさき未来戦略研究センター (2017年6月1日). 2017年6月18日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。


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