御匣殿 (西園寺公顕女) 『新曲』

御匣殿 (西園寺公顕女)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 04:52 UTC 版)

『新曲』

史実では御匣殿の早逝に尊良の討死と悲劇的な運命を辿った夫妻だが、『新曲』では牛車越しの再会というハッピーエンドで終わる。絵本『新曲』(江戸時代前期)より。明星大学所蔵。

軍記物語太平記』で著名になった御匣殿と尊良親王の恋愛譚は、室町時代から江戸時代初期にかけて流行した幸若舞の題材にも採られ、『新曲』という作品が制作された[32]。『新曲』という名は、最も遅く追加された作品であることと、幸若舞の中では最も最後の時代を描いた作品であることに由来する[33]。史実や『太平記』では、尊良は武将としても名を為した人物であるが、『新曲』では尊良の戦闘描写は省かれ、純粋に王朝物語的な恋愛伝説として描かれた[32]。ただ、この改変が逆に災いして、武家文化である幸若舞の中では、あまり人気はなかった[32]

江戸時代前期には、『新曲』の押絵入りの絵本も制作され、2017年時点で、明星大学所蔵の奈良絵本『新曲』など5点が現存している[34]

また、江戸時代前期、狩野派と見られる絵師が『新曲』を題材にした扇を制作している[35]

脚注

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参考文献

関連文献

  • 野邑理栄子; 吉田明生 『金ヶ崎恋物語:花換えの恋』 敦賀観光協会、2005年。 
  • 村上, 学「『一宮御息所』・『新曲』・『中書王物語』」『国語と国文学』第57巻第5号、東京大学国語国文学会、1980年、 29–37。

注釈

  1. ^ 中世日本においては、宮廷人にとっての一般知識・古典的教養である『源氏物語』の話は、宮廷における恋愛観にも影響力があった[2]。たとえば、後深草院二条が書いたとされる日記文学『とはずがたり』(14世紀初頭)のうち艶麗な宮廷恋愛模様を描いた前半部分には、展開と和歌の双方で『源氏物語』からの強い影響が見られる[2]。また、日本史研究者の中井裕子は、論文ではなく個人のウェブサイト上のくだけた文脈ではあるが、尊良親王の父である尊治親王(後の後醍醐天皇)が有力公家の娘である西園寺禧子西園寺家邸宅から盗み出した事件について、政治的動機による婚姻ではなく、単に『源氏物語』の熱狂的な愛好家だった尊治が光源氏紫の上の物語を演じたかったのではないか、という個人的動機に求める説を提起している[3]
  2. ^ 史実としては、尊良親王が皇太子位を巡る後継者戦に出て敗れたのは、文保2年(1318年)の邦良親王立太子の時ではなく、嘉暦元年(1326年)の量仁親王(のちの光厳天皇)らとの争いの時[15]
  3. ^ 歴史上では、尊良は御匣殿以外にも、母方の叔母とも関係を持っていたが(『増鏡』「むら時雨」)[5]、御匣殿との交際とどちらが先なのかは不明。
  4. ^ 実際には、御匣殿は、このとき数え21歳弱の尊良とほぼ同じか若干年上だったと思われる(#生涯)。
  5. ^ 「徳大寺左大将」が史実の徳大寺公清(このとき右中将で、中宮権大夫として御匣殿の同僚でもあった)とすれば、この時点で数え15歳ほどで、御匣殿・尊良よりも若い。
  6. ^ なお、尊良親王は容姿の端麗さと和歌の才能から、『太平記』では終始、文弱の印象に描かれ、鎌倉幕府との戦い元弘の乱でも、流刑先の土佐国高知県)に留まったままでいる[26]。しかし、史実の尊良は、元弘の乱の最中に武人としても急激に成長し、流刑先の土佐から脱走し、九州に渡海して倒幕軍の旗頭となり、鎌倉幕府の九州方面軍である鎮西探題の打倒に貢献したと推測されるほどの勇将になっている[28]

出典

  1. ^ a b c d e 藤原 1903, vol. 6, p. 46.
  2. ^ a b * 鈴木, 儀一「「とはずがたり」二条の教養 : 引歌をめぐって」『駒沢国文』第6巻、駒沢大学国文学会、1968年、 10–25。
  3. ^ 中井裕子 (2003年5月3日). “A LIFE OF 後醍醐天皇: 3. 皇太子時代”. きゅーchanのほーむぺーじ. 2020年8月13日閲覧。
  4. ^ 『大日本史料』6編1冊136–137頁.
  5. ^ a b c d e 井上 1983, pp. 231–234.
  6. ^ 長谷川 1996, pp. 451–452.
  7. ^ 鈴木 2007, pp. 46–48.
  8. ^ 鈴木 2007, pp. 57–58.
  9. ^ 鈴木 2007, pp. 60–61.
  10. ^ 森 2007, pp. 245–246.
  11. ^ 井上 1983, pp. 156–161.
  12. ^ 井上 1983, pp. 163, 262.
  13. ^ 森 2007, pp. 53–55, 226–229.
  14. ^ a b c 博文館編輯局 1913, pp. 548–565.
  15. ^ a b 森 2000, §3.1.3 東宮ポスト争奪戦と量仁の立太子.
  16. ^ 長谷川 1996, p. 456.
  17. ^ a b 長谷川 1996, p. 452.
  18. ^ a b c d 森 2007, pp. 98–99.
  19. ^ a b 花園天皇 1986, p. 316.
  20. ^ a b 森 2007, pp. 45–46.
  21. ^ 『史料綜覧』6編907冊142頁.
  22. ^ 長谷川 1996, p. 450.
  23. ^ 長谷川 1996, pp. 450–478.
  24. ^ a b c d e f g h i j 長谷川 1996, pp. 450–454.
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 長谷川 1996, pp. 453–460.
  26. ^ a b 長谷川 1996, pp. 460–478.
  27. ^ 長谷川 1996, pp. 460–477.
  28. ^ 森 2007, pp. 53–55.
  29. ^ a b 長谷川 1996, pp. 477–478.
  30. ^ 金崎宮 -かねがさきぐう- 「歴史と人物」尊良親王と金ヶ崎”. 金崎宮. 金崎宮 (2005年). 2020年6月22日閲覧。
  31. ^ 万代昌子 (2019年4月5日). “金崎宮は「恋の宮」♪ 難関突破も願えるパワースポット?そのご利益とは【敦賀市”. Dearふくい. 2020年6月22日閲覧。
  32. ^ a b c 山本 2017, pp. 35–36.
  33. ^ 山本 2017, p. 35.
  34. ^ 山本 2017, pp. 36–38.
  35. ^ 山本 2017, p. 48.





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