宇治橋 (伊勢市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/20 08:42 UTC 版)
概要
宇治橋は伊勢の神宮の内宮の参道口にある長さ101.8m、幅8.42mの木造の和橋(わきょう、日本風の橋)で、橋の両側に神明鳥居がある。五十鈴川に架けられたこの橋は内宮参拝時の記念撮影の名所になっており、内宮のシンボルとされる。神宮の定義では宇治橋を渡った先は神域ではなく神苑であるが、崇敬者・参拝者は通常神域と扱うことから、一般に「俗界と聖界の境にある橋」とされる[1]。
明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていた。太平洋戦争での日本の敗戦直後に昭和天皇の指示で第59回神宮式年遷宮は無期延期とされ、のちに4年遅れの1953年(昭和28年)に行なわれることに決まった。しかし宇治橋だけでも架け替えようと声が強く、宇治橋だけが当初の予定通り1949年(昭和24年)に架け替えられ、以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになった。4年前に架け替えるようになったので社殿の造営と期間がずれ、遷宮に必要な大工の数が減らせるようになるとともに、遷宮に対する参拝客の興味を長く引き止めることができるようになり、遷宮の資金面で役立っている。
宇治橋の鳥居
橋の両側の鳥居の高さは7.44m、直径は最も太い部分で約70cm、総重量は約5tで、外側(西)の鳥居は、外宮正殿の棟持柱の古材から、内側(東)は内宮正殿の棟持柱の古材から作られる[2]。式年遷宮に合わせて20年ごとに建て替えられ、第62回式年遷宮では2014年9月29日に起工、同年10月3日に完成式を挙行した[3]。完成式では外側の鳥居に笠木をはめ込んで鳥居が完成し[3]、お祓いが行われた後、神職ら約100人がくぐり始めを行った[2]。初めて鳥居が設置された時期は不明であるが、室町時代後期の宇治橋を描いた絵には既に鳥居も描かれている[3]。
明治以降、これらの鳥居が建て替えられると外の鳥居は三重県桑名市桑名宿の七里の渡しで、内の鳥居は鈴鹿峠の麓にある三重県亀山市関町関宿の関の東の追分で、それぞれ神宮遙拝用の鳥居に20年間使用されている[2][4]。その後も日本各地の神社で鳥居や部材として再利用される[3]。
日の出
宇治橋は五十鈴川に対してほぼ直角に架けられており、西岸から東岸を見た場合は約30度南を向いている。宇治橋の東側には島路山があり、日の出は島路山からとなる。このため日の出が南よりからとなる冬至を中心とする約2か月の間は宇治橋の鳥居の間からの日の出となるが、永らく誰の気にも止められなかった。鳥居の正面から朝日が昇るのは冬至の前後数日に限られる[5]。1980年代にこれに気付いた参拝客の情報により、神宮の広報誌の『瑞垣』(みずがき)に冬至前後は鳥居の間から日が昇ると紹介されてから有名となり、冬至前の数日から1月初旬の間は鳥居からの日の出を見る人で賑わうようになった。
2014年12月22日の冬至祭では600人が参拝し、7時30分頃に宇治橋から昇る朝日を拝んだ[5]。
- ^ a b c 『日本経済新聞』NIKKEIプラス1(土曜朝刊別刷り)2020年4月25日 何でもランキング:木橋 美しきシンボル/第2位:伊勢神宮の宇治橋(三重県伊勢市)日常と神聖な世界 結ぶ(2021年2月1日閲覧)
- ^ a b c “伊勢神宮宇治橋前の大鳥居完成「なぜ、遷宮後すぐ新しい鳥居ができないか?」”. 伊勢志摩経済新聞 (2014年10月3日). 2014年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月29日閲覧。
- ^ a b c d “伊勢神宮の宇治橋鳥居、20年ぶり新調 旧正殿のヒノキ使用”. 『日本経済新聞』(共同通信配信記事) (2014年10月3日). 2014年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月1日閲覧。
- ^ 『桑名市史』『関町史』
- ^ a b 「冬至の神秘 ありがたや 伊勢神宮・宇治橋に朝日」『中日新聞』朝刊2014年12月23日付(伊勢志摩版16ページ)
- ^ 『お伊勢さん125社めぐり, p. 116.
- ^ 『伊勢神宮に行こう』, p. 54.
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