妙本寺 歴史

妙本寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 14:21 UTC 版)

歴史

妙本寺のある谷戸は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があった。比企能員は源頼朝に仕えた有力御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となって一幡を生むなど、源将軍家とは深い関係を有した。その結果、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになった。建仁3年(1203年)に頼家が病気で倒れると、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で、後継争いが勃発した。能員は密かに頼家と北条氏討伐を謀るが、これを事前に察知した北条氏によって名越で謀殺される。比企一族は比企谷の谷戸に籠って戦うが敗北し、一族郎党は屋敷に火を放って自害した(比企能員の変)。その際、若狭局は井戸(一説には池)に身を投げ、一幡は戦火の中で死んだと伝えられている。

ただ一人生き残った能員の末子(後の能本)は助命され、和田義盛に預けられた後に安房国に配流となった。成人の後には京都に上り順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると佐渡まで供をしたといわれている。更にその後、彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘・鞠子。寺伝では媄子)が4代将軍・九条頼経御台所とになったことから、許されて鎌倉に帰った。しかし、文暦元年(1234年)に竹御所が難産の末に男子を死産し、そのまま本人も死去した。その際に、持仏であった釈迦如来像を祀るための釈迦堂の建立を遺言したという。この遺言を承け、嘉禎元年(1235年)に比企谷に新釈迦堂が建立され、竹御所はその下に葬られた。寛元元年(1243年)、比企一族の出身といわれる仙覚が新釈迦堂の住持となり、寛元4年(1246年)には頼経の命により万葉集諸本の校訂を成し遂げた[3]。 その後建長5年(1253年)、能本は鎌倉を訪れた日蓮に帰依、文応元年(1260年)には、父・能員と母の菩提を弔うべく新たに法華堂を建立し寄進した。その際に、日蓮が父に「長興」母に「妙本」の法号を授けたことから、寺号を「長興山妙本寺」と定めたと伝わっている。なお、日蓮没後には六老僧の一人・日朗が継承し、以後、比企谷妙本寺を本拠として長谷山本土寺長栄山本門寺等を管轄した。このことから日朗門流は「比企谷門流」と呼ばれ、この3ヶ寺を併せて「朗門の三長三本[注釈 3]と称された。

このように比企谷門流にとって三長三本は重要な拠点であったが、本土寺は遠く離れていた事から3世以降に専従の住持が置かれたのに対し、妙本寺と本門寺は昭和16年(1941年)まで1人の住持が2ヶ寺を管轄する「両山一首制」によって護持されていた。更に、天正19年(1591年)に両山12世・佛乗院日惺が徳川家康の江戸入府に伴い本門寺に本拠を遷した為、貫首不在となった妙本寺には別当職に相当する「司務職」を置き比企谷全山を総理統監させた。なお歴代司務職には塔頭首座・本行院の住持が就任する慣わしとなった。[注釈 4] 門流の本拠が池上に遷ったとはいえ妙本寺と本門寺が同格であることに変わりはなく、最盛期には院家塔頭2院16坊を擁し、直末寺は比企谷池上両山併せて165カ寺、朱印領1貫500文を有する大寺として隆盛を極めた。その後、天保13年(1842年)には天保の改革にて廃寺となった感応寺の本堂の解体部材と厨子が遷された。この時運び込まれた解体部材は祖師堂下に貯蔵されていたが、明治8年(1875年)1月10日に発生した大火により身延山久遠寺が灰燼に帰した際に、久遠寺祖師堂再建の為にこの部材が使用された。昭和16年(1941年)に両山一首制から一山一首制に移行し、平成16年(2004年)には由緒寺院から霊跡寺院に昇格した。

現住は82世・鈴木日敬貫首(東京都墨田区法性寺より晋山)


注釈

  1. ^ 『新編鎌倉志』では日朗を開山としている[2]が、これは本行院の代数に拠ったものと推察される。本行院については後述する。
  2. ^ 霊跡本山長興山妙本寺・霊跡本山寂光山龍口寺・本山真間山弘法寺・本山龍水山海長寺・本山長崇山本行寺の5ヶ寺。
  3. ^ 3ヶ寺とも山号に「長」・寺号に「本」が付くことに因んだ名称で、日朗延慶2年(1309)年正月に著した置文によって定めたもの。「第一比企谷長興山妙本寺、第二平賀長谷山本土寺、第三池上長榮山本門寺、三長三本永く三寺一寺たるべく、法水更に同ぜざるべからざるものなり。中を取りて本土寺の事は貴坊日傳上人へあづけ申すなり。此の旨、曾谷殿も御同心の處也。」とある。
  4. ^ ここでは便宜上“塔頭首座”としてあるが、寺伝では「本行院」は独立した塔頭寺院ではなく「妙本寺の本院号」(塔頭支院に対する本山の呼称。身延山久遠寺の「妙法華院」・長栄山本門寺の「大国院」等)とされており、厳密な意味での塔頭とは異なる存在である。
  5. ^ 妙音坊とも号す。
  6. ^ 仏眼院とも号す。
  7. ^ 常住院とも号す。
  8. ^ 東照院とも号す。

出典

  1. ^ 文化遺産オンライン
  2. ^ 新編鎌倉志 1915, p. 123.
  3. ^ 校訂本奥書『寛元四年十二月廿二日於相州鎌倉比企谷新釈迦堂僧坊以治定本書写畢』






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