天皇寺 (坂出市) 概要

天皇寺 (坂出市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/23 03:05 UTC 版)

概要

境内は崇徳上皇を祀っていた白峰宮に隣接し、白峰宮が崇徳天皇社であったときその別当寺であった。現在は、崇徳上皇を祀ってはいないが歴史的経緯から天皇寺の名称を持つ。また、過去の経緯から院号の高照院で呼ばれていたこともある。

歴史

伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王[注釈 1]ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が金山の麓にある泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれるようになったという。(弥蘇波[注釈 2]から転じたとの説もある)

その後、寺伝によると、天平年間に行基は、カナヤマビメとカナヤマビコが鎮座する金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創した[1]。さらに後、空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、金山権現の化身である天童が現れ閼伽井を汲み大師に給仕し、この山の仏法を守るようにと宝珠を預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋め、荒廃していた堂舎を再興し、その寺を摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と号した[注釈 3]。 また大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来愛染明王の三尊像を刻造して安置した。そして、金山ノ薬師は札所[2]となり、それらの霊験著しく七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛した。

時代は下って、崇徳上皇は、保元の乱1156年)で敗れ讃岐国に配流となり、最初の約3年は雲井御所で過ごし、その後、情勢の変化により厳しく管理するため当所に移され[注釈 4]、約6年余り幽閉された後の長寛2年(1164年)旧暦8月26日に崩御した。上皇の亡骸の処遇について京から返事の使者を待つあいだ、金棺を冷たい八十場霊泉に浸し、清水をかけ続けたところ、21日間過ぎたのちも上皇の顔はまるで生きているごとくだったという。その間、霊泉から東へ約200 mの所にあった上皇の御所の辺りから毎夜神光が放たれ森が光ったという[注釈 5]。やがて返事が届いて上皇は白峯山に葬送され旧暦9月18日山上で荼毘に付された。そして、二条天皇は、崩御の地に一堂を設けるよう沙汰を下しており[3]、上皇が最期に住んだ終焉の地であり神光が光った上皇の魂が宿る御所跡である当所に、霊を鎮めるためその年の内に御廟が建てられた。また、寛元2年(1244年後嵯峨天皇の宣旨により崇徳天皇社は再建され、摩尼珠院はその別当職に任じられ崇徳院永代供養の寺という役割を担わされた。そして、いつの頃か札所は金山ノ薬師から崇徳天皇社とその別当摩尼珠院となった。ゆえに人はみな摩尼珠院は「天皇寺」と呼び、崇徳天皇社は「天皇さん」と親しまれるようになった。また、このあたりを「天皇」という地名で呼ぶようになったが、恐れ多いので「八十場の霊水」から名をとり、現在は「八十場」と呼んでいる。江戸時代末期の納経帳には「奉納経 本尊十一面観音 崇徳院御鎮座所 讃州 摩尼珠院」と版木押しに十六八重菊の御紋の朱印がされている[4]

明治維新直前、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯宮へ戻され、崇徳天皇社は崇徳上皇を祀ることを廃止し白峰宮と改名された。さらに、明治初年の神仏分離令により、神社境内にある寺院は移転か廃寺を迫るものであり、さらに寺請制度の寺院に新政府は厳しく、摩尼珠院は廃寺となった。ただ、初代神官には摩尼珠院主が赴任し、79番札所は筆頭末寺の奇香山仏乗寺高照院(約2 km北の林田町にあった)が引き継ぐことになった。その後、神仏分離令の嵐がおさまった明治20年(1887年)高照院は、摩尼珠院跡の現在地に天皇寺高照院として移転した。[5]

伽藍

三輪鳥居
本堂の正面と背面
  • 三輪鳥居:扁額は「崇徳天皇」[注釈 6]が掛かり、「享保19年(1734年)衆力合成惣 氏子中 現住 法言代」と柱に刻まれている。
  • 本堂:2016年2月17日より1年間、本尊と脇仏日光月光菩薩は本坊にて御開帳された。本尊の中には伝弘法大師作の十一面観音が胎内仏として納められていると云われている。正面表には「金剛界説法」裏には「胎蔵界説法」の扁額が掛けられ、両方で参拝するようになっている。
  • 大師堂:大師像の拝観は不定期、基本的には無し。
  • 地蔵堂
  • 金比羅祠(大物主大神、そしてオオナムチノミコト)
  • 摩尼珠院大師堂(神社側)
  • 稲荷堂
  • 茶堂
  • 本坊
  • 衛士坊の坂(えじぼうのさか):三ツ鳥居から塀沿いに北へ下る坂で、当地に幽閉された崇徳上皇を監視する国府の衛士が毎日この坂道を通っていた。
境外地

四脚の赤い鳥居をくぐり、正面奥は白峰宮であり、その手前を左に行くと天皇寺の本堂とその左に大師堂がある。右の門を入って行くと本坊がありその右側に納経所がある。白峰宮本殿の向って右を通り境内を通り抜け裏に通ずる車道を500 mほど行くと八十蘇場の清水と地蔵堂がある。

  • 宿坊:なし
  • 駐車場:境内に普通車用が200円であり。

注釈

  1. ^ 景行天皇の子とも日本武尊の子であるとも言われる。また、この伝承は日本武尊の弟という説や、日本武尊自身が退治に向かったという話もある
  2. ^ 寂本『四国遍礼霊場記』(1689年)では"故に弥蘇波と書なり"とある
  3. ^ 摩尼珠院とは、字の如く摩尼寳珠を意味し、摩尼寳珠とは如意寳珠同様に「意のままに」を意味し、「仏が在ってこそ神は意のままに」を表した院号であると思われる。ただ、ここで云う「意のままに」とは、単なる「刹那的感情のままに、思い通りに」というものではない。さらにこの神仏習合の摩尼珠院を、空海は両部神道の思想を妙成就寺との寺号で表した。
  4. ^ 雲井御所に上皇を慕う人々が都から訪れていたため、また、平治の乱1159年)もあり上皇を隔離するため当時は森にうずもれ人々が近づかないが監視しやすいこの地に移した
  5. ^ このことから白峰宮が「明の宮」と呼ばれる
  6. ^ 崩御から13年後の治承元年(1177年)高倉天皇は上皇に崇徳の諡号を贈る。それまで讃岐院と呼ばれていた

出典

  1. ^ 四国八十八ヶ所霊場会 編『先達教典』四国八十八ヶ所霊場会、2006年、306頁。 
  2. ^ 澄禅『四国遍路日記』(1653年)に"大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也"とある
  3. ^ 玉葉』による
  4. ^ 1825年 (文政8年)の納経帳による
  5. ^ 柴谷宗叔『江戸初期の四国遍路:澄禅「四国辺路日記」の道再現』法藏館、2014年4月、302頁。全国書誌番号:22423950 





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