天文博物館五島プラネタリウム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/22 07:40 UTC 版)
常設展示
ロビーは、常設展示場になっていた。イギリスのフィリップス社製の天球儀(直径約1m)、精巧な縮尺で作られた8台の歴史的な天体望遠鏡の模型、天体写真、四季の星座ジオラマ、三球儀、人工衛星の模型などがあった。東急文化会館屋上には太陽観測用の望遠鏡(シーロスタット)があり、晴天日には展示室の最奥部で太陽面を観察することができた。
1970年代半ば以降には、日本の星、中国と日本の星座、西洋の星座絵図、隕石など、収集してきた実物の資料も公開されていた。この中には、世界最古の星図といわれた淳祐天文図、渋川春海の天文分野の図、司馬江漢の天球図、アラードの天球図などの実物も含まれていた。
出口付近に売店があり、天文グッズのほか、日本天文学会の会報『天文月報』を入手することができた。この売店では関西系の東亜天文学会の会報『天界』のバックナンバーもあり、関東圏では手に入りにくかったことからアマチュア天文家には重宝がられた。
掲示板
1980年代、「最も早い天文情報は、ここのドーム横の掲示板に張り出されたニュースだ」と言われていた。1985年10月8日夕方、人工衛星の落下直後に、光害の少ない所でジャコビニ流星群が突発的に流れたというニュースは、同館の掲示板が一番早かった。天文学に興味をもつ市民・学生は、最新情報を入手するために同館を利用する者もいた。1990年代に入ってパソコン通信による情報網が形成されたことが、館の存続のマイナス要因の一つでもあった。
施設・運営について
運営は、財団法人天文博物館五島プラネタリウムが行っていた。財団の設立は、プラネタリウムの映写機等機材を購入した東急側に対し、さらに学者側が「日銭を稼ぐ事業ではなく、博物館にしてほしい」と申し入れ、五島が「では財団にしよう」と答えて、財団の設立と、建物、機材の財団への寄付が決まったという[1]。運営の収入源は入場料であった。入場者数が伸び悩んだ1990年代後半には赤字となっていたが、東急側が数千万円の寄付を行っていた[1]。
建物については、東急文化会館の設計図を引き直して建設が進んだ。ここでプラネタリウムドームの一部が建築基準法の建築制限を超えてしまい、建設省に何度も足を運びなんとか許可を取り付けたという[1]。
閉館後の施設の活用
イメージスタジオ・イチマルキュウ (109) により、デジタルエンターテインメント劇場「E-Field」として2001年8月10日にオープン。機動戦士Ζガンダムをモチーフとして大気圏突入を描いた約24分のオリジナル作品『ガンダム新体験 グリーンダイバーズ』を1日10回、DLPプロジェクタで上映。現在では各地で徐々に増えつつある製作から上映までフルデジタルの映像作品の上映は日本国内でも早い時期で実験的な意味も含まれていた。
関連商品
- ^ a b c d e f g h i j 白土健、青井なつき『なぜ,子どもたちは遊園地に行かなくなったのか?』創世社、2008年5月
- ^ アイランズ 『地図から消えた東京物語(新旧地図で比較する東京の20年)』東京地図出版、2009-130、50頁。ISBN 9784808509576。
- ^ “天文博物館五島プラネタリウムヒストリー(DVD)”. アストロアーツ. 2013年2月14日閲覧。
- ^ “Officers”. en:International_Planetarium_Society. 2019年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月29日閲覧。
- ^ “Officers”. International_Planetarium_Society. 2022年6月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月29日閲覧。
- ^ “プラネタリウム協会に日本人会長 科学技術館の木村かおるさん”. 西日本新聞 (2018年12月25日). 2022年9月29日閲覧。
- ^ “研究者データベース - 木村 かおる”. 大妻女子大学. 2022年9月29日閲覧。
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