ヴェストファーレン条約 影響

ヴェストファーレン条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 01:55 UTC 版)

影響

ヴェストファーレン条約後のドイツ地方。大国はもちろん、都市国家規模の自由都市や小国までもが独立国としての権威を獲得した。

三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけハプスブルク家の敗北によって終わった。この条約で新教徒(特にカルヴァン派)の権利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められたこと、またカトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定したことで、ドイツでは紛争を平和的に解決する道が開かれた。このため最後の宗教戦争と言われる[11]

ドイツは、帝国内の領邦に主権が認められたことにより、300に及ぶ領邦国家の分立が確定した。また皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場に立たされることとなった[11]。これにより、ハプスブルク家は依然として帝国の最有力諸侯として帝位を独占したものの、帝国全体への影響力は低下し、自らの領地であるオーストリア大公国ボヘミア王国ハンガリー王国などの経営に注力せざるを得なくなった(ハプスブルク君主国)。その一方で、帝国の組織は保存され、それら領邦国家の保存・平和的な紛争解決手段として活用されることとなった。

この条約で多くの利益を得たのは、ベールヴァルデ条約で結ばれていたフランスとスウェーデンである。デンマーク王国イングランド王国ピューリタン革命の中途)はプロテスタントでありながら戦勝国に加われなかった。また、カトリックのスペイン・ハプスブルク家がこの戦争を通して勢力の減退を印象づけ、以後は没落の一途をたどる[11]

フランス

フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。ハプスブルク家の弱体化に成功した上、アルザスを得たフランスは、以後ライン川左岸へ支配領域の拡大を図り、侵略戦争を繰り返すことになる[11]宰相リシュリューは、国王ルイ13世ケルン大司教選帝侯)に、更には神聖ローマ皇帝位に就けようとしていたが、野望は果たせなかった。

またフランスは、アルザスロレーヌの一部を獲得しながら、帝国諸侯となることは出来なかった。これは帝国議会・帝国クライスへ介入する道が閉ざされたことを意味した。後にルイ14世スペイン継承戦争でライン川流域に手を伸ばすが、帝国クライスで結束した諸侯たちは一致してフランス勢力に立ち向かうことが出来た。

スウェーデン

スウェーデンもこの条約でバルト海沿岸部に領土を獲得し、その一帯に覇権を打ち立てた[11]。この時代のスウェーデンはバルト帝国とも称される。ブレーメンからフランクフルトまでを制圧し、この区間から帝国郵便を駆逐してスウェーデン郵便を展開していた[11]

1644年親政を開始した女王クリスティーナが寛大な姿勢で大幅な譲歩をしたため、取り分が激減してしまったとも言われる。彼女は父グスタフ2世アドルフの理想(古ゴート主義)を放棄し、カトリックと和解した。彼女の理想は全キリスト教世界の救済だったのである。グスタフ2世アドルフの政策を受け継ぎスウェーデンに勝利をもたらした宰相オクセンシェルナは、親政開始により事実上失脚した。後に彼女はスウェーデンのプロテスタント教会と反目し、王位を返上してカトリックに改宗する。

またスウェーデンにおいて重要だったのは、フランスとまったく逆に、レーエンという形で領土を与えられたということである。すなわち、スウェーデンはフォアポンメルン、ブレーメンフェルデンを得たが、これはスウェーデン王がフォアポンメルン公、ブレーメン公、フェルデン公の位を帯びることを意味したのである。スウェーデンは帝国議会に席を持ち、オーバーザクセン、ニーダーザクセン、ニーダーライン・ヴェストファーレンの3つの帝国クライスに席を占め、それらを機能不全にさせた。

その一方でスウェーデンは帝国諸侯として帝国が戦争を行う場合には兵員と軍資金の供出を義務づけられることとなった。オランダ侵略戦争の際、1674年に帝国議会が対フランス戦争を宣言すると、スウェーデンはフランス側に立ち、1675年に神聖ローマ帝国と戦争を始めるのであるが、スウェーデンは帝国と戦争を行いながらも、ブレーメン公としてニーダーザクセン・クライスに定められた兵員を供出する、という奇妙な立場に立たされることとなった。

ローマ教皇庁

ローマ教皇庁はこの条約を不服として条約の宣言を無効と主張した。現在でも撤回されていない。


注釈

  1. ^ ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序は、1814年・1815年のウィーン会議ウィーン議定書)によって決定づけられたため、「ウィーン体制」と称する。

出典

  1. ^ a b c d e 木谷(1975)pp.21-24
  2. ^ a b c d e f 菊池(2003)pp.214-219
  3. ^ 明石『ウェストファリア条約』3頁、48頁。
  4. ^ 中嶋(1992)p.190
  5. ^ a b 明石『ウェストファリア条約』21頁注1。
  6. ^ 明石『ウェストファリア条約』40-41頁。
  7. ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。ポーランドを不参加とする説があるが、使節を参加させていたようである(同書78-79頁注21)。
  8. ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。
  9. ^ 明石『ウェストファリア条約』60-61頁。
  10. ^ オスナブリュック講和条約第17条、明石『ウェストファリア条約』65-66頁に訳出。明石は、参加しない者が講和に含まれたのは、全ヨーロッパ的な平和状態への移行をともにする、という意味合いだと説く(同書68-69頁)。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 木谷(1975)pp.24-29
  12. ^ a b c d e f g h i j 菊池(2003)pp.223-226






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