ヴェストファーレン条約 ヴェストファーレン条約の概要

ヴェストファーレン条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 01:55 UTC 版)

ヴェストファーレン条約
(ミュンスター条約およびオスナブリュック条約)
ミュンスター条約締結の図(ヘラルト・テル・ボルフ画)
通称・略称 ウェストファリア条約
ヴェストファリア条約
三十年戦争講和条約
署名 1648年
署名場所 ミュンスターおよびオスナブリュック
ドイツヴェストファーレン
主な内容 三十年戦争講和条約
条文リンク ヴェストファーレン条約全訳(歴史文書邦訳プロジェクト)
テンプレートを表示

この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った[1][2]。この秩序を「ヴェストファーレン体制」ともいう。

会議と条約の参加者

ヴェストファーレン条約を構成する2つの条約のうち、オスナブリュック講和条約 (Instrumentum Pacis Osnabrugensis)は、カトリック勢力を率いた神聖ローマ皇帝 フェルディナント3世と、プロテスタント勢力の主柱だったスウェーデン女王 クリスティーナの講和問題を主な内容とする。ミュンスター講和条約 (Instrumentum Pacis Monasteriensis)は、神聖ローマ皇帝と、カトリック国でありながらプロテスタント側で参戦したフランス王国との講和問題を中心とする条約である。

戦争の主要当事者には他にもう一つ、カトリックのスペイン王国があり、主にフランスと戦っていた。スペインも講和会議に参加したが、ここでは妥結に至らなかった[3]。会議が開かれた時点では、参加した主権国家はわずか12か国にすぎなかった[4]

1646年、平和交渉のためミュンスターに向かうオランダ全権アドリアン・ポー英語版の一行

スペインからの独立戦争を戦っていたネーデルラント連邦共和国も、連邦議会の名で会議に加わり、同じ年にスペイン王国とミュンスター条約を結んで独立を認められた。学者によってはこのミュンスター条約もウェストファリア条約に含めることもある[5]

ヨーロッパ諸国のほとんどは、三十年戦争に参戦しなかった国も含め、何らかの形で会議に参加した[2]。参加者のうち、数の上で多数を占めたのは、神聖ローマ帝国内部の領主、有力聖職者、都市からなる帝国等族である[5]。彼らの中の有力な一部は、皇帝・国王と並んで2条約に名を連ねた。ヴェネツィア共和国ローマ教皇は、和平の当事者ではなく仲介者として参加した[6]。会議に使節を派遣しなかった有力国は、清教徒革命の内戦下にあったイングランド王国、宗派・宗教が異なるロシア・ツァーリ国オスマン帝国の3国だけであった[7]

この時代には国家が法人格を持つものと考えられておらず、外交は君主・議会など統治権を持つ個人・団体の資格でなされた[2]。どの国も使節を派遣し、君主などの本人は参加しなかった[2]。派遣されて会議に加わった使節の総数は、帝国外から37、帝国内から112、計148名にのぼった[8]。参加国のすべてが条約の署名者に連なったわけではない。オスナブリュック講和条約には、皇帝の全権使節2名、スウェーデン女王の全権使節2名、都市を含めた帝国等族の使節36名の計40名が署名した。ミュンスター講和条約には、皇帝の全権使節2名、フランス国王の全権使節1名、帝国等族の使節35名の計38名が署名した[9]。条約は署名に加わらなかったもの(特に帝国等族)も履行・遵守の義務を負うものとしており、また、イングランドやロシアのような参加しなかった国も講和に含まれるものとした[10]

戦場では同盟して戦ったフランスとスウェーデンであったが、和平交渉の場では、戦争から引き出す利益の分配をめぐるライバルであった[1]。神聖ローマ皇帝もまた、両国を対立させ、その溝を利用して犠牲を最小化しようと努力した[1]

内容

1648年10月24日に、ヨーロッパのほとんどの大国が参加して、現在のドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるミュンスターで締結された(実際にはオスナブリュック条約もミュンスターで締結された)[2]。取り決められた内容は膨大であるが、代表的なものとして以下の事柄が挙げられる。

この結果、フランスは、アルザス・ロレーヌへの勢力拡大に成功し、スウェーデン帝国議会への参加権を得た。一方、ドイツでは領邦主権が確立し、領邦君主による連合体としてのドイツという体制が固まった[12]

この条約の成立によって、教皇皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された[12]。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国の存在を前提として勢力均衡の中で国益をめぐり合従連衡を繰り返す国際秩序が形成された。この条約によって規定された国際秩序はヴェストファーレン体制とも称される[12]


注釈

  1. ^ ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序は、1814年・1815年のウィーン会議ウィーン議定書)によって決定づけられたため、「ウィーン体制」と称する。

出典

  1. ^ a b c d e 木谷(1975)pp.21-24
  2. ^ a b c d e f 菊池(2003)pp.214-219
  3. ^ 明石『ウェストファリア条約』3頁、48頁。
  4. ^ 中嶋(1992)p.190
  5. ^ a b 明石『ウェストファリア条約』21頁注1。
  6. ^ 明石『ウェストファリア条約』40-41頁。
  7. ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。ポーランドを不参加とする説があるが、使節を参加させていたようである(同書78-79頁注21)。
  8. ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。
  9. ^ 明石『ウェストファリア条約』60-61頁。
  10. ^ オスナブリュック講和条約第17条、明石『ウェストファリア条約』65-66頁に訳出。明石は、参加しない者が講和に含まれたのは、全ヨーロッパ的な平和状態への移行をともにする、という意味合いだと説く(同書68-69頁)。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 木谷(1975)pp.24-29
  12. ^ a b c d e f g h i j 菊池(2003)pp.223-226


「ヴェストファーレン条約」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴェストファーレン条約」の関連用語

ヴェストファーレン条約のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴェストファーレン条約のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴェストファーレン条約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS