ヤーコブ・ヨルダーンス 代表作

ヤーコブ・ヨルダーンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/10 07:45 UTC 版)

代表作

『羊飼いの礼拝』

『羊飼いの礼拝』(1618年)
国立美術館(ストックホルム)

『羊飼いの礼拝』には複数のヴァージョンが現存している。いずれも幼児キリストをかき抱く聖母マリアと、二人を崇拝しているフランドル風の衣装を身に着けた羊飼いたちを描いた作品である。キリスト以外の人物はひとかたまりになった半身像で表現され、この場面が親密さにあふれていることを強調している。 1616年以前のヨルダーンスはマニエリスムの華やかで明瞭な色使いに興味を持っていた。しかし『羊飼いの礼拝』は色使いよりも光を描写することで人物像を浮かびあがらせる技法を試している。これはヨルダーンスがカラヴァッジョの作品から影響を受けたことを意味する。『羊飼いの礼拝』は聖ヨセフがかかげる蝋燭が主たる光源になっており、この作品における光の表現手法は、独自の明暗技法を発展させたアダム・エルスハイマーからの影響も見られる[6]。そのほかカラヴァッジョからは写実主義も取り入れており「聖母マリアと幼児キリストは素朴で飾り気なく描かれ、そこにはわずかな理想化も存在しない」とされている[6]

ヨルダーンスは『羊飼いの礼拝』を少なくとも6点描いている。密着した半身の人物像で描くことが多く、観るものの注意が人物像にのみ向けられるように場面を小さく切り取ったような構成で描かれている。この構成は作品の物語性を強め、さらに描かれている人物たちの感情表現を際立たせる目的で採用されている。

『サテュロスと農夫』

『サテュロスと農夫』(17世紀前半)
アルテ・ピナコテーク(ベルリン)

『サテュロスと農夫』は『イソップ物語』からの道徳的寓話を描いた絵画で、ヨルダーンスはこの主題の作品を多く描いている。この寓話は一人の男とギリシア神話の聖霊サテュロスとの会話から始まる。ある寒い日に二人が話しているときに、男が自分の手に息を吹きかける。サテュロスがなぜそのようなことをするのか問いかけると、男は自分の手を暖めるためだと答えた。そのあと二人は食事の席に着き、男が今度は熱い食べ物が入っている皿を持ち上げて息を吹きかけた。再びサテュロスがそのようなことをする理由を尋ねると、今度は男は熱い食べ物を冷ますためだと答えた。するとサテュロスは男に向かって「お前との友情はこれまでだ。口から熱い息も冷たい息も同じように出せる男だとは思ってもいなかった」と吐き捨てた[19]。この寓話の教訓は人間の多面性を表現したものだが、ヨルダーンスがこの場面を描いたのは寓話に興味を惹かれたためではなく、単に農夫が登場する場面を描きたかっただけだとする研究者もいる[20]

アルテ・ピナコテークが所蔵するヴァージョンでヨルダーンスが描いたのは、サテュロスが農夫に対してもうお前を信用できないと言い放った瞬間である。食べ物を口にしている農夫を尻目に、サテュロスは農夫の家を後にしようとして出し抜けに手を振り上げている[21]。ヨルダーンスはこの物語の場面を農夫の家に設定し、雄牛、犬、猫、雄鶏を家財道具と人々の周りに配置して描いた。様々な年齢層の人々がテーブルを取り巻いており、農夫の後ろに立つ少年、幼児を抱く老女、サテュロスの肩越しに顔を覗かせる若い女性が描かれている。

ヨルダーンスが人物を描く際の特徴として、絵画前面に人物を配置して狭い空間に押し込めるように表現する作風があげられる。明暗法であるテネブリズムキアロスクーロを多用することによって描く人物に劇的な効果を与え、この『サテュロスと農夫』では画面中央の老女に抱かれた幼児の表現に顕著となっている。画面最前面に薄汚れた農夫の脚を描くことで写実主義も表現しており、ここには当時のフランドル絵画で流行していたカラヴァジェスティの影響が見られる。ヨルダーンスは1620年から1621年ごろにかけて、この題材を扱った作品を二点描いており[21]、アルテ・ピナコテークが所蔵するこのヴァージョンに描かれている若い女性は『羊飼いの礼拝』と同じ女性をモデルとしていると考えられている。ヨルダーンスが同じ題材をモチーフとして同様の作風で描いた多くの作品や模写と同様に、この『サテュロスと農夫』も助手や弟子たちの教育用手本として描いた絵画であり、ヨルダーンス独自の特徴はあまり見られない作品でもある[22]

『画家と家族の肖像』

『画家と家族の肖像』(1621年 - 1622年)
プラド美術館(マドリード)

『画家と家族の肖像』はヨルダーンス自身の自画像と、妻カタリナ・ファン・ノールト、娘エリザベトを描いた肖像画である。1617年に生まれた娘のエリザベトが4歳くらいの外見で描かれていることから、1621年から1622年ごろの作品と考えられている[23]。描かれている家族は、この作品を観るものすべてを歓迎して招き入れるかのように表現されている。ヨルダーンスは家族の肖像に古くからの伝統である愛の庭園 (Jardin d'amour) を描き出した。この絵画の意味を理解させるために、ヨルダーンスは多くの寓意をこの作品に描きいれている。「背後に描かれている絡まりあったブドウのつるは、この夫婦が一心同体であること[23]」を、エリザベトが手に持つ果物は愛情を、花々は無垢と純真をそれぞれ意味している[23]。そのほか、画面左上の木に止まったオウムは夫婦間の貞節を、右下の犬は忠誠と信頼を表している[23]

『貢の銭を探す聖ペトロ』

『貢の銭を探す聖ペトロ』(1623年頃)
アムステルダム国立美術館(アムステルダム)

『貢の銭を探す聖ペトロ』はアムステルダムの武器商人ルイス・デ・ヘールの依頼で1623年ごろに描かれたとされている。『マタイによる福音書』の17章24節から27節の、神殿への税を支払うことが出来ないペトロに対しキリストが魚の口から銀貨を見つけるように説いたというエピソードを表現した作品で、一艘の小舟に多くの人々が乗り込んだ構成で描かれている。聖ペテロと使徒たちが画面右側に描かれ、ペテロが舟に引き上げられた魚を見下ろしている構図である。描かれている使徒たちはこの絵画を観るものを意識していないが、子供とともにいる女性や、オールを漕いでいる船乗りなど明らかに観るものの方に視線を向けている人物も描かれている。とはいえ、ほとんどの人物は、魚を探す者、船を操る者、目的地への到着を待ちわびる乗客など、自身の行動に没頭した様子で描かれている。ヨルダーンス自身の習作から様々な外観、表情の人物肖像が選択されて描かれているが、同じ人物肖像が他の作品にも描かれていることも多い[24]。近年大規模かつ完全な画集が刊行される際に『聖ペテロ』の修復が行われ、この作品が様々な試行錯誤を繰り返しながら何層にもわたって描かれていることが明らかになった[25]

『聖アポロニアの殉教』

アントウェルペンの聖アウグスティヌス教会には3点の祭壇画があった。どれも1628年に制作されたもので[26]、もっとも大きなルーベンスの『聖母子を礼拝する聖者』を中心にして、アンソニー・ヴァン・ダイクの『法悦の聖アウグスティヌス』とヨルダーンスの『聖アポロニアの殉教』がその両横に配置されていた[26]。ヨルダーンスの『聖アポロニアの殉教』が主題としているのは、拷問にあいつつも信仰を捨てることなく炎に飛び込んで死を選んだという3世紀のキリスト教の聖人アポロニアで、そのエピソードが多くの群衆とともに劇的に描かれている。ルーベンス、ヴァン・ダイク、ヨルダーンスは当時のアントウェルペンでもっともすぐれたバロック画家である。この3名が同時に共同作業を行ったのはこの聖アウグスティヌス教会から依頼を受けた祭壇画制作時の一度きりで、3名ともそれぞれの作品テーマに関連した作品を描き上げた[26]。ルーベンスの祭壇画には聖人に囲まれた聖母マリアが、ヴァン・ダイクとヨルダーンスの祭壇画には聖母マリアを褒めたたえる聖人が描かれている。描かれている殉教と修道僧的暮らしを通じて、聖人たちの肖像が観る者を天国と神の世界へと招き入れるかのような連作だった[26]

『幼児ユピテルを育てるアマルテイア』

『The Infant Jupiter Fed by the Goat Amalthea』(1630年 - 1640年頃)
ルーブル美術館(パリ)

『幼児ユピテルを育てるアマルテイア』の背景には風景画が描かれている。描かれている山羊はギリシア・ローマ神話で幼少のユピテル(ゼウス)を育てたといわれるアマルテイアであり、アマルテイアは山羊ともニンフといわれているが、この作品では山羊として描かれている。腰布をまとって敷物の上に座り込んでいる画面中央の裸婦はニンフのアンドレステアで、青白い肌で描かれたアンドレステアの裸体と暗い色調で描かれたその他の肖像とが対照的に描かれている。アンドレステアは片手をアマルテイアの背中にかけ、もう片手はアマルテイアの乳房から乳を搾り出して受け皿にためている。アンドレアの背後に描かれた空のボトルを握りしめた幼いゼウスはミルクを求めて泣いている。右に描かれているのは半獣のサテュロスで、泣くユピテルの気をそらそうとして木の枝であやしている。オランダ人版画家スヘルト・ア・ボルスヴェルト (en:Schelte a Bolswert) が後にこの絵画を版画に起こし、この作品が持つ寓話的な意味合いを明確にした。この版画にラテン語で書かれた説明書きによれば、幼いユピテルは山羊の乳を与えられて育てられたために、神話でよく知られているように不倫を繰り返す浮気な神になってしまったとされている[27]

『酒を飲む王様』

『酒を飲む王様』(1640年頃)
王立美術館(ブリュッセル)

ヨルダーンスは「酒を飲む王」をモチーフとした作品を複数描いており、そのうち1640年のバージョンがブリュッセルの王立美術館に所蔵されている。フランドルでは1月6日は公現祭で、ご馳走とワインを家族で分かち合って陽気に騒ぐ祝日になっている。晩餐のときには誰か一人が王に扮する慣わしで、この作品でヨルダーンスは最年長の人物に王の役を割り当てており、臣下の役割は王に扮した者自らが任命している[28]。ヨルダーンスが描いた「酒を飲む王」の別ヴァージョンの絵画には、17名の人物肖像が肩を組んで騒いでいる作品や、画面最前面に多くの人物肖像が押し込まれるように描かれている作品などがあり、浮かれて馬鹿騒ぎをする人々の感情の高揚を描いた作品となっている[28]。あまりに浮かれすぎて喧嘩寸前であったり、飲みすぎで嘔吐する男性など、ある意味惨めとも言える情景が描かれているようにも見える。ヨルダーンスはこの様な情景と画面最上部の「酔っ払い以上にひどい狂人は存在しない」という文言が刻まれた扁額を描くことによって、自分は酒飲みが嫌いだということを作品に表現している[29]

『大人が歌えば子供が笛吹く』

『大人が歌えば子供が笛吹く』(1638年 - 1640年頃)
ルーヴル美術館(パリ)

ルーヴル美術館が所蔵するヴァージョンの『大人が歌えば子供が笛吹く』は同じくルーヴル美術館が所有するヴァージョンの『酒を飲む王様』と対を成す絵画だと考えられている。どちらの絵画も道徳心を説く作品で、まったく同じ大きさであり作風も非常に似通っている[30]。『大人が歌えば子供が笛吹く』には、楽団を背にしたアントウェルペンの裕福な中産階級の三世代家族が食卓に向かっている姿が描かれている。ヨルダーンスが好んで描いた画題であり、この作品にも何点かのヴァージョンが存在し、ヨルダーンスの義父アダム・ファン・ノールトが老人の役で描かれているものもある。どのヴァージョンでも老年、中年の人物が歌っており、子供が一緒に笛(パイプ)を吹いている[30]。作品の題名は1632年に出版されたオランダ人詩人ヤコブ・カッツ (en:Jacob Cats) の寓意画集『Spiegel van den Ouden ende Nieuwen Tijdt』の有名な格言から来ている。もともとオランダには雛鳥は親鳥の鳴きまねをするという意味合いの「Zo de ouden zongen, zo piepen de jongen」という格言があり、カルヴァン主義者だったカッツはこの格言を子供は年長者のまねをするから両親は言動に気をつけなければならないという、道徳的な格言に置き換えて著書に記した[30]。このルーブル美術館が所蔵するヴァージョンで描かれているのはバグパイプとフルートパイプだが、別のヴァージョンでは当時でも子供には有害だと考えられていた煙草のパイプを子供がくわえているものもある。どのヴァージョンの『大人が歌えば子供が笛吹く』でも、ヨルダーンスは年少者は年長者の真似をするものであるという道徳的な意味を込めて描いている。老女が座る藤椅子にとまった夜の鳥フクロウは人は必ず死ぬというメメント・モリの警句を象徴している[30]

『プロメテウス』

『プロメテウス』(1640)
ヴァルラーフ=リヒャルツ美術館(ケルン)

1640年の作品『プロメテウス』は、夜毎再生する肝臓を毎日ワシに食われるという責め苦を受けるギリシャ神話の古神プロメテウスを描いた絵画である[31]。プロメテウスは人間に火を与えるという不遜な行動をとったために主神ゼウスから罰を受けたというこのプロメテウスのエピソードは、人間の創造力を意味するモチーフとして芸術や自然科学の分野で多く取り上げられてきた[31]

ギリシア神話中でヘルメスは、人に火を与えるという軽率な行動をとったプロメテウスと敵対する神として描写されている。しかしながらこの作品でプロメテウスの背後に描かれているヘルメスは、プロメテウスの刑罰からの解放に手を貸そうとして描かれている[32]。縛り付けられ虐待を受けるプロメテウスという表現は、もともと古代アテナイの三大悲劇詩人のひとりアイスキュロスの著作から来ているもので、その著作でヘルメスがプロメテウスを虐待しているのは、楽観的で後先を考えない軽率な行動を戒めるという意味があった。

ヨルダーンスの『プロメテウス』はルーベンスが描いた『プロメテウス』と関連性が非常に強い。ヨルダーンスの『プロメテウス』では、ワシが血走った眼をして仰向けになった全裸のプロメテウスにのしかかった構図で、痙攣して身体をよじるプロメテウスの刑罰と苦痛が描かれているが、これらはルーベンスが描いた数点の『プロメテウス』でも繰り返し描かれている表現である[33]。ルーベンスの作品との相違点として、画面左に描かれた骨の詰まった麻袋(プロメテウスがゼウスを騙そうとした牛の骨)と粘土製の肖像彫刻(プロメテウスが新しい人類を創造したことの象徴)があげられる[32]。その他に、ヨルダーンスの作品にはプロメテウスの激しい苦悶が非常に直截的に描かれているのに対し、ルーベンスの作品ではねじれた身体でのみプロメテウスの苦痛が表現されている。ヨルダーンスが描いたプロメテウスの表情はヨルダーンス自身の絵画になんども見られる表現であり、さらに当時のほかの画家たちの作品にもその影響をみることができる。

キューピッドとプシュケの連作

ヨルダーンスは1639年から1940年のどこかの時点で、イングランド王チャールズ1世から連作絵画の制作依頼を受けている。この依頼はブリュッセル在住のイングランド王の代理人バルタザール・ガブリエルとアントワープ駐在外交官チェザーレ・アレッサンドロ・スカーリアを通じてもたらされた。神話のキューピッドとプシュケのエピソードをテーマとした作品群で、最終的には22点の絵画が1640年から1641年の間に描かれる予定だった[34]。全作品の完成後にはグリニッジのイングランド王妃の別邸に飾られる予定だったが、ヨルダーンスには本当の依頼主と収蔵場所は知らされていなかった[35]。ヨルダーンスは自身とイングランド宮廷との仲介を務める人物に作品の最初のデザインを提示したが、このときガブリエルはルーベンスのほうがこの計画には適任であると考えており、チャールズ1世にもルーベンスを登用するように推挙していた[36]。しかしながらルーベンスが1640年5月30日に死去したため、このガブリエルの企ては頓挫し、ヨルダーンスが単独でこの計画全体の総責任者となった[37]。しかしながら計画は遅々として進まず、立案から1年後の1641年5月にスカーリアの死去とともに『キューピッドとプシュケ』の連作絵画計画は瓦解してしまう。この計画が再開されることはなく、結局わずかに8点の作品のみが完成してイングランド王宮へと送られた。その後スカーリアの遺産相続人とヨルダーンスの子供との世代にいたるまで、8点の作品のうち7点の支払についての争いが延々と続く結果を招いている[34]

アントウェルペンのヨルダーンスの邸宅にはキューピッドとプシュケを描いた別の連作があり、少なくとも9点の作品が邸宅南館にあったサロンの天井に飾られていた。この連作にはギリシア・ローマ神話のプシュケのエピソードの中から、アポロンの神託を受けるプシュケの父王、キューピッドとプシュケの恋愛、好奇心に負けるプシュケ、飛び去るキューピッドなどが描かれていた。これらの絵画は下から見上げたときに栄えるように短縮遠近法を用いて描かれ、採用されている透視図法はルーベンスがアントウェルペンのイエズス会修道院に描いた天井画をそのまま真似たものとなっている。この連作は天井に設けられた八角形の小窓を通して鑑賞するように設置されていた[38]。ヨルダーンスの孫が残した記録によれば、1708年に邸宅を売却したときにこれらの連作も同時に売り払われたとなっている。

『フレデリック・ヘンドリックの凱旋』

『フレデリック・ヘンドリック公の凱旋』(1651年頃)
ハウステンボス宮殿(ハーグ)

『フレデリック・ヘンドリック公の凱旋』は1651年ごろに描かれた作品で、オランダ総督だったオラニエ公フレデリック・ヘンドリックとその身内を取り囲む多数の集団肖像が描かれている。フレデリック自身は1647年に死去しているが、公妃アマーリエ・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスはフレデリックの思い出を偲ぶためにこの作品を含む一連の絵画を描かせた。故人の記録を絵画として残すことは当時の慣行であり、これらフレデリックを描いた一連の絵画も生前の優れた業績を称えることを意図していた[39]。個々の業績を文章ではなく分かりやすい意匠と肖像であらわしており、フレデリックの勇敢さと高潔さをさまざまな寓意を用いて表現している作品群である[40]。フレデリックの死後、郊外にあった「森の家」を意味するハウステンボス宮殿に隠棲したアマーリアのためにハウステンボス宮殿に所蔵された。『フレデリック・ヘンドリック公の凱旋』はオラニエの間 (Oranjezaal) に飾られ、壁面下部のほとんどを占めるほどの大きなこの作品はオラニエの間にある絵画群のなかでも主要な作品となっていた。ヨルダーンスはルーベンス、ヴァン・ダイクとともにフランドル絵画の三大巨匠のひとりとして非常に高い評価を得ていたため、この栄誉ある作品の制作を依頼されたのである[39]

『フレデリック・ヘンドリック公の凱旋』に描かれているフレデリックは、神の化身のように平和の守護者として勝利の戦車に座し、オリーブの枝と様々な宝物でその繁栄と成功が表現されている。画面両横には東西インド諸島の文物を運び込む男たちが配され、公国の豊かな繁栄と同じく軍事的勝利においてもフレデリックが全責任を負っているかのように描かれている[40]。『フレデリック・ヘンドリック公の凱旋』は非常に複雑な構成を持つ作品で、現代の研究者たちの間でもこの作品にどのような意味がこめられているかが議論されているが、すべてを解読することは非常に困難となっている。ヨルダーンスがまとめあげた『フレデリック・ヘンドリック公の凱旋』の主題を表面的に把握することは難しくないかもしれないが、この作品には何かを象徴する人物像などで埋め尽くされている。ヨルダーンスが描いたすべての意味を解釈するためには、描かれた当時のあらゆる絵画における象徴性、寓意性を理解する知識が必要とされるのである[41]








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