ペルーの歴史 オンセニオ(1919年-1930年)

ペルーの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 01:25 UTC 版)

オンセニオ(1919年-1930年)

オンセニオを演出したアウグスト・レギーア大統領。

1918年のサン・マルコス大学の学生運動のようにペルーでも階級闘争が激化していたことを背景に、1919年の大統領選挙では社会改革を掲げたアウグスト・レギーアが圧勝し、正式に大統領に就任する前にパルドを追放、議会を解散して1920年1月に初等教育の無償化や累進課税医療の拡充、先住民への教育の普及と同化政策を定めた、当時としては進歩的な1920年憲法を制定した[102]。好調な経済と軍部の力を背景に1919年から1930年まで続いた第二次レギーア政権の11年は「オンセニオ」[註釈 5]と呼ばれる[103]

ラテンアメリカを代表するマルクス主義思想家、ホセ・カルロス・マリアテギ

レギーアは弱体化していた既成政党を操作しながら政治を意のままにし、鉱業や農業の成功を背景に経済が安定したこともあって、オンセニオ期には借款を用いて道路や鉄道、小学校の建設などの公共事業が興された[104]。この時期に第一次世界大戦によって衰退したイギリスに代わって、アメリカ合衆国がペルー第一の投資元となった[105]。外交面ではアメリカ合衆国との友好を確立することでの領土問題の解決が図られた。北部では1922年にサロモン・ロサノ条約が調印され、プトゥマヨ川がコロンビア・ペルーの国境に定められてコロンビアのレティシア領有を認め、南部では1929年にチリからタクナが返還されたが、アリカの返還は行われず、ペルー国民に強い不満を生じさせた[106]。1929年に発生した世界恐慌によってペルー経済が壊滅状態に陥ると、アレキパの連隊長だったルイス・ミゲル・サンチェス・セロ中佐が蜂起し、レギーアは失脚した[107]

文化面では、サン・マルコス大学の学生運動が社会的に大きな影響を持っていたためレギーアはしばしばサン・マルコス大学を閉鎖し、ハビエル・プラードやリバ・アグエロのような知識人が大学を追われた結果、大学そのものが学問の場から学生活動家による政治活動実践の場に変質してしまった[108]。サン・マルコス大学の学生活動からは、活動家だったビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレが1924年に亡命先のメキシコ市アメリカ革命人民同盟(APRA)を創設している。APRAは当初マルクス主義的な立場からの運動だったが、APRAの反帝国主義ソ連のそれとはまた別物であり、1927年に思想上の差異からコミンテルンと絶縁したために、1928年に『ペルーの現実理解のための七試論』(1928)の著者ホセ・カルロス・マリアテギによって、国際共産主義運動の立場からペルー社会党が創設された[109]。しかし、マリアテギもまた独自色が強すぎたために1929年にコミンテルンから否定され、マリアテギ自身が1930年に病没するとペルー社会党はコミンテルンに従ってペルー共産党に改名し、以後の急進左翼運動の主導権はAPRAによって担われることになった[110]。アヤ・デ・ラ・トーレもマリアテギも、共に社会主義をペルーのインディヘニスモとの関わりの中で解釈した思想家であり、彼ら以後は文学に於いてもシロ・アレグリアホセ・マリア・アルゲダスのような、インディヘニスモ的な作家が現れた[111]。また、オンセニオ期にはサッカーが大衆化し、全土に普及した[112]


註釈

  1. ^ 最初期のペルー副王領は現在のペルーのみならず、ポルトガル領ブラジル以外のパナマより南の南アメリカ全体を統括していた[16]
  2. ^ ドビンズの推計値は増田、柳田(1999:13)からの孫引きであることを明記しておく。
  3. ^ 皮肉にも彼の子孫のエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、彼とは異なり20世紀後半のラテンアメリカの革命闘争に従事したのであった。
  4. ^ 日本とペルーが1873年に国交を結ぶきっかけとなったマリア・ルス号事件は、この過程で発生した事件であった[72]
  5. ^ オンセ=onceはスペイン語で11を意味する。
  6. ^ この面積に関しては20万km²と主張している資料も存在する[124]

出典

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