ストーヤイ・デメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/21 02:45 UTC 版)
Jump to navigation Jump to searchこの項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、印欧語族風にデメ・ストーヤイと表記することもあります。 |
ストーヤイ・デメ Sztójay Döme | |
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1944年3月23日 | |
生年月日 | 1883年1月5日 |
出生地 |
オーストリア=ハンガリー帝国 ハンガリー王国 テムズ郡 |
没年月日 | 1946年8月22日(63歳没) |
死没地 | ハンガリー共和国 ブダペスト |
在任期間 | 1944年3月22日 - 1944年8月29日 |
ハンガリー王国外務大臣 | |
在任期間 | 1944年3月22日 - 1944年8月29日 |
生涯
軍人・外交官
オーストリア・ハンガリー軍に入隊後第一次世界大戦に従軍、戦時中に大佐に昇進する。終戦後は一時ユーゴスラビア軍に入隊した後、1919年にホルティ・ミクローシュの率いるハンガリー国民軍に参加し、共産主義者に対する白色テロに従事した。
ホルティ政権下のハンガリー軍では少将に昇進し防諜部門を担当した後、1925年に駐ベルリン駐在武官に任命され、ドイツの軍部と政界で交友を広めた[1]。また、1927年には姓名をハンガリー式の「ストーヤイ」に改めた。1933年から1935年まで国防省で勤務した[1]後、同年に中将に昇進し駐ドイツ大使に任命され1942年まで務めた[2]。大使在任中はナチス最高指導部のアドルフ・ヒトラー、ヨーゼフ・ゲッベルスと親交を深め、ドイツの政策を支持するようにハンガリー本国に働き掛けた[2][3]。
1944年3月、ドイツ軍はマルガレーテI作戦によってハンガリーを占領し、連合国との講和を模索していたカーロイ・ミクローシュ首相を解任し、ホルティを軟禁した[4]。ドイツ特使のエトムント・フェーゼンマイヤーは、ドイツに協力的なイムレーディ・ベーラを首相に任命するようにホルティに提案したが、ホルティは提案を拒否し、代わりにストーヤイを推薦した。ホルティはストーヤイが親独的であることは知っていたが、大蔵官僚のイムレーディよりも、軍人であるストーヤイの方がドイツの圧力に抵抗出来ると考えていた。フェーゼンマイヤーも親独派のストーヤイの首相就任に同意したため、3月22日にストーヤイは首相兼外務大臣に就任した。
首相
ストーヤイはドイツの政策を支持し、東部戦線におけるハンガリー軍の増強を図ると同時に、活動を禁止されていたファシズム政党・矢十字党を合法化する一方で左派政党を解散させ、ハンガリーに拘留されていた全政治犯をゲシュタポに引き渡した[5]。また、ホルティが首相就任を拒否したイムレーディを大蔵大臣に任命するなど、ナチス寄りの人物で内閣を固めた[6]。
しかし、ユダヤ人の強制移送を進めたことでホルティの反感を買ったため解任されそうになるが、ヒトラーの介入により慰留された[7]。その後、ホルティは8月7日にユダヤ人の強制移送を停止させると同時にイムレーディを財務大臣から解任し、ストーヤイに圧力を掛けた[7]。病気のため入院していたストーヤイは24日に辞任することに合意し、29日に首相を辞任し、親英米派のラカトシュ・ゲーザ将軍が後任の首相になった[8]。10月15日のパンツァーファウスト作戦でホルティとラカトシュが失脚した際は病気のため再任されず、矢十字党のサーラシ・フェレンツが新首相に任命された。
死去
1945年4月、ドイツ軍がソ連軍によって駆逐されると、ストーヤイはハンガリーを脱出しアメリカ軍に投降するが、10月にハンガリー国民臨時政府に引き渡され、ハンガリーで人民裁判に掛けられた。
1946年3月22日、ハンガリー人民裁判所により戦争犯罪で死刑判決を言い渡され、8月22日に銃殺刑が執行された。
- 1 ストーヤイ・デメとは
- 2 ストーヤイ・デメの概要
- 3 参考文献
固有名詞の分類
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