ゴレ島 ゴレ島の概要

ゴレ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/07 12:54 UTC 版)

ゴレ島
セネガル
ゴレ島
英名 Island of Gorée
仏名 Île de Gorée
登録区分 文化遺産
登録基準 (6)
登録年 1978年
備考 負の世界遺産
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
使用方法表示
ダカールプラトー区東に浮かぶゴレ島

ゴレ島(ゴレとう、Île de Gorée)はセネガル領の島。同国首都ダカールの沖合いにある。過去には奴隷貿易の拠点として栄え、世界遺産に登録されている。

島全体がダカール市の19の行政区の一つ、ゴレ区となっている。

地理

海上から撮られたゴレ島
シュレイによるゴレ島地図(1772年)

セネガル共和国の首都ダカールの沖合い約3キロメートルに浮かぶ。島は東西300メートル、南北900メートル、面積28ヘクタール程度[1]と小さい。セネガルでは最古のイスラム教モスクも残っている。1815年に統治国だったフランスが廃止するまで、奴隷貿易の拠点として栄えた。かつての奴隷収容所が島内に残っている。

歴史

1444年ポルトガル人が到達する。

1628年オランダにより占拠される。以後、イギリスフランスが領有争いを繰り広げるが、最終的にフランス領とされる。フランスはフランス革命の際1794年に奴隷廃止を宣言したが、1802年ナポレオンが砂糖プランテーションの農場主の要請により撤回している。ナポレオンの最初の妻であるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの父も、富裕なマルチニークの農場主であった。

1815年3月百日天下の際にナポレオンはイギリスの歓心を得るために奴隷貿易を廃止した。奴隷貿易が廃止されると商業の中心はリュフィスク1840年)、ダカール(1857年)へと移った。1872年サンルイと共にフランス式のコミューンが置かれた。ダカールも当初はゴレ・コミューンの一部だったが、1887年に独立した。1891年ゴレには2100人、ダカールに8737人の人口があった。1926年にはゴレ700人、ダカール3万3679人となり、1929年にゴレはダカールに統合された。

現代のゴレ島の地図

1960年セネガルの独立に伴い、セネガル領となる。

1978年に、ユネスコ世界遺産文化遺産)として登録。奴隷貿易の拠点として栄えた史跡を背景として、負の世界遺産にも数えられている。1996年の行政改革に伴いダカール市の19区の1つとしてのゴレ・コミューンが復活し、旧市役所が再利用されている。ゴレ・コミューンの議会は5年に一度選挙され、区長は議員により選ばれる。2002年以降の区長はオーギュスタン・サンゴール。

2003年アメリカ合衆国ブッシュ大統領がセネガルを訪問した際の、首脳会談の場所となる。会談の期間中、島民を退去させるなどしたため、「第二の奴隷」などとしてセネガル国内で大きな非難を浴びた。


  1. ^ 【view写】引き返せぬ「奴隷への扉」『産経新聞』朝刊2017年9月24日
  2. ^ “ラティール・シーさん(セネガル)”. My Eyes Tokyo. (2007年6月13日). https://www.myeyestokyo.jp/53189 2021年7月23日閲覧。 


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