長崎医科大学 (旧制)
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旧制長崎医科大学(きゅうせいながさきいかだいがく)は、1923年(大正12年)4月、長崎市に設立された旧制官立大学。略称は「長崎医大」。
- ^ 「こしま」と読む。
- ^ 長崎市立長崎商業高等学校の前身
- ^ 現在6月18日は長崎大学薬学部の創立記念日となっている。
- ^ 1913年(大正2年)4月の改則により2年に延長。1915年(大正4年)6月、内務省認可を得る。
- ^ 長崎大学発足の際、附置研究所となり、熱帯医学研究所(1967年(昭和42年)6月設置)の前身となった。
- ^ 『官報』第5696号、昭和21年1月11日。
- ^ 小路敏彦 『長崎医科大学壊滅の日』 中央公論事業出版、1995年、pp.49-50、77-80。
- ^ 大村海軍病院の非情、原爆重症患者退院させる(昭和20年10月30日 毎日新聞(東京)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p652 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
長崎医科大学
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「永井隆 (医学博士)」の記事における「長崎医科大学」の解説
1928年(昭和3年)3月 、松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと当時としては大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献。この部活動で上海や杭州にも遠征している。また、同大学のアララギ支社に入って、歌会にも参加した。 高校以来唯物論者であったが、母が1931年(昭和6年)3月29日に脳溢血で急逝したのを機に霊魂があると信じるようになる。その後、パスカルの『パンセ』を愛読し、カトリックに惹きつけられていった。浦上天主堂近くで牛の売買を営んでいたカトリックの森山家に下宿し、後に妻となる一人娘の緑(洗礼名:マリア)に出会った。森山家の先祖は隠れキリシタンで信者を指導し、教会暦を伝承する帳方であった。 1932年(昭和7年)5月、大学の卒業式で総代として答辞を読むことになっていたが、卒業式の5日前のクラス会の帰りに雨に濡れてそのまま寝たために急性中耳炎にかかり、命を落とすか障害者になるかという重症に陥った。この間、カトリック信者の老婆が世話をしたが、永井がうわごとで「天主の御母聖マリア、われらのために祈りたまえ」というのを聞いて「きっと信者になる」と思ったという。 2ヶ月後にようやく健康を取り戻したが、右耳が不自由になったため、当初志望していた内科を諦めて物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻することとなった。1932年(昭和7年)11月8日に助教授に就任した末次逸馬の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組んだ。 1933年(昭和8年)2月1日、幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍。この間、緑から送られた公教要理を読んでカトリックの教えに対する理解を深めた。 1934年(昭和9年)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。浦上天主堂の守山松三郎神父を訪れる。同年6月に洗礼を受け、洗礼名を日本二十六聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとした。同年8月に森山緑と結婚。洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会(英語版)(ヴィンセンシオ会)に入会。無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。 1935年(昭和10年)2月、急性咽頭炎に蛋白刺激療法を試そうとして雑菌を注射した後にアナフィラキシー症状を起こして危篤となった。そのため、終油の秘蹟を受けた。大学の景浦内科部長の手により助けられたが、それ以来喘息が持病となった。
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