銅山川分水と利害の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:14 UTC 版)
一方、愛媛県宇摩地方(現在の四国中央市一帯)では慢性的な水不足を解消するため、銅山川からの分水計画・銅山川分水を安政年間より計画していた。1924年(大正13年)に宇摩郡疏水組合が結成され、翌年には「銅山川疏水事業期成同盟会」が結成されて、法皇山脈を貫く導水事業の早期完成を行政に促した。これを受け愛媛県は1928年(昭和3年)に柳瀬ダムを銅山川に計画して利水・発電を目論んだ。 1931年(昭和6年)に愛媛県と徳島県は「分水に関する仮協定覚書(第一次分水協定)」を締結したが、土居徳島県知事は事前に県会の承認を得る事を定めていた内務省令を無視し、勝手に覚書を交わしていた。これに徳島県会が猛反発した。また、内務省の担当者がダム計画の説明に県会を訪れたが、分水反対派の三木熊二県議に利水計画に対してダム容量が少なすぎることを指摘されたばかりか、住民説明会では、住民側から吉野川の想定流量が現実の値をかけ離れている事を指摘され、説明を求められると、鉄道乗車予定時刻を理由に退席しようとした。今夜の宿代と鉄道運賃を支払いを申し出て住民説明会の継続を求める住民側に対し、内務省担当者は強引に退席するという前代未聞の珍事に発展した。これらの内務省側の対応に激怒した徳島県会を見て、愛媛県側は一戸愛媛県知事と県議数名を代表とする交渉団を徳島県会に送り込み、単独交渉を開始したものの、覚書の順守を求める愛媛県側と新たに覚書を作り直すことを求める徳島県側が対立し、交渉は成立しなかった。 翌年には、徳島県会は三木熊二を中心とする反対派が大勢を占め、三木熊二は「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない。」と演説し、徳島県会は全会一致で分水反対を決議した。再度愛媛県側は交渉団を派遣したが、話は平行線のまま終わった。 結局は内閣側が調停に乗り出し、徳島県側は発電計画を中止する縮小案で妥協することを認め、1938年(昭和13年)1月31日に第一次分水協定が成立した。また折からの戦時体制で軍需省が発電事業への参入を決定。1945年(昭和20年)2月11日に発電用水を目的とする第二次分水協定が成立したが、混乱する中終戦を迎えることとなった。 戦後、愛媛県側は工事を再開しようとしたが、徳島県側は第二次分水協定は戦中の軍国主義体制の中、国策として制定されたものであり、協定内の下流放水量に問題があり、両県の協議も整っていないとして異論・反発が起こった。この結果、内務省、四国行政事務局などが間に入り、第一次分水協定と同量まで下流放水量まで増量することが決定し、これに加え柳瀬ダムに洪水調整目的も加えた多目的ダムとすることが決定され、1947年(昭和22年)3月1日第三次分水協定が締結された。その後、愛媛県より委託された建設省の手によって柳瀬ダムの工事が開始された。その後協議が繰り返され、1951年(昭和22年)3月23日に第四次分水協定を締結し、柳瀬ダムの提高を53m以上と明記し、銅山川からの分水が柳瀬ダム完成前からでも可能という協定を徳島県側から得た。
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