銅山川分水計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:41 UTC 版)
瀬戸内海気候である愛媛県宇摩地域(四国中央市の一部)は、温暖少雨のため慢性的な水不足を被り易く、安定した水供給の確保は喫緊の課題であった。安政2年、宇摩郡の庄屋連合は今治藩三島代官所に銅山川疏水事業の申請を提出した。これが「銅山川分水」構想の発端であり、1924年(大正13年)には「銅山川疏水事業期成同盟会」が結成され、分水の実現は宇摩地域の悲願となった。愛媛県は1928年(昭和3年)に灌漑・発電を目的とした柳瀬ダム計画を発表し法皇山脈を貫く分水計画を立ち上げたが、下流の徳島県が水利権を盾に猛然と反対した。計画は頓挫し掛けるが、内務省の調停により発電事業を放棄し灌漑のみでの分水として計画を縮小することで徳島県と合意した。だが軍需省が発電事業の追加を求め混乱、終戦を迎えた。
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