鉄道の東海道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:02 UTC 版)
なお、「東海道」の名をつけたJRの東海道本線および東海道新幹線は、東京 - 熱田間と草津 - 京都間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが、熱田(名古屋市)- 草津については中山道(加納 - 草津)と美濃路(宮・熱田 - 垂井)に沿ったルートとなっている。 現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、名古屋 - 草津については名古屋 - 亀山 - 草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば関西本線と草津線のルートに近いものである。 この名古屋(宮・熱田)から亀山を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち、上記の東西幹線から外れた区間は、明治中期になって民間の関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが国有化されて現在の両線となっている。 東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れた理由は、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設する際、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、中山道経由に一旦は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限、さらには沿線人口の差(中山道沿いには名古屋市や浜松市、静岡市に相当する大きな都市がなかった)を考慮したところ、やはり東海道経由の方が優れているという検証がなされ、急遽岐阜(加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。 計画変更が決まった時には、既に神戸から大阪・京都を経て大津に至る鉄道と、長浜から岐阜・名古屋を経て武豊までの鉄道が開業しており、これと琵琶湖の鉄道連絡船(太湖汽船 大津 - 長浜航路)を用いることによって武豊 - 名古屋 - 京都 - 神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。 結果、日本初の鉄道路線である新橋 - 横浜間もその東西幹線に組み入れる形となり、1880年代中頃(明治10年代末)より横浜から静岡を経て大府に至る区間と関ヶ原から米原を経て大津に至る区間が建設され、1889年(明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。 また東海道新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要する(1964年東京オリンピック前の開業予定に間に合わなくなる)こと、それに米原が北陸本線(旧:北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。 以上の経緯については、中山道及び鉄道と政治の項目も参照のこと。
※この「鉄道の東海道」の解説は、「東海道」の解説の一部です。
「鉄道の東海道」を含む「東海道」の記事については、「東海道」の概要を参照ください。
- 鉄道の東海道のページへのリンク