遊覧鉄道となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 07:43 UTC 版)
1920年(大正9年)に、宇治川電気による宇治川沿いへの大峯ダム(堰堤)建設に際して、資材運搬用のトロッコが奈良線からダム建設現場までの9.6kmに敷設され、電気機関車で運行された。軌間は610mm、直流600Vで電化された本格的なものであった。 1924年(大正13年)にダムと志津川発電所が完成した後も、ダムと発電所の間の3.6kmは従業員や資材の運搬用に残されていた。 戦後になって、この路線を観光用に活用することが立案される。宇治川には「宇治川ライン」と呼ばれる観光船が1926年(大正15年)より宇治川汽船により就航(1975年(昭和50年)廃止、会社解散)していたが、観光船は堰堤よりも宇治寄りには運行することができず、そこまでのアクセスが問題となっていた。このため、早くからこの専用鉄道の転用案が出ていたという。 遊覧鉄道に転用するに当たり、地方鉄道法や軌道法といった運輸事業目的の鉄道として事業申請をおこなう場合、手続きが煩雑になる上、法定対応のために必要なコストや租税額が大きいことが判明する。そこで、これを児童福祉法に基づく遊戯物(遊園地などと同じ扱い)とすることでこれらの問題を回避することとなった。 この方針に沿って必要な設備の整備が行われ、1950年(昭和25年)10月11日に路線は「おとぎ電車」として開業した。 当時平行路線であり、かつ宇治川を通る路線は黒字経営であった宇治田原自動車(のち、京阪宇治交通。現在は会社解散)は、乗客減が懸念されるとしてこのおとぎ電車の開通に強く難色を示していたが、実際には宇治川ライン回遊コースの片道におとぎ電車を、もう片道に宇治田原自動車のバスを利用する乗客が多かったため、予想とは逆におとぎ電車による相乗効果でバスも乗客増となった。 運営は京阪電気鉄道(京阪)が行ない、車両は凸型車体の電気機関車(25HP×2)に客車7両1編成が充当された。志津川発電所側は「天ヶ瀬駅」、上流側は「堰堤駅」を名乗り、途中駅はなかった。運賃は大人40円、小人20円であった。当初は1編成のみで、冬季は運休した。翌年春の運行再開に際して客車1編成が追加された。遊覧鉄道ではあるが、観光客の少ない平日には地元民の足としても用いられていた。 運行開始当時は線路や電気設備は日本発送電(のち、関西電力)の所有で京阪がそれを借用する形になっていたが、1955年3月16日付で関西電力から約870万円で京阪に譲渡する契約が結ばれ、京阪の所有となった。
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