近世の秋目村と秋目浦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:50 UTC 版)
江戸時代の秋目は薩摩国河辺郡久志秋目郷(外城)のうちであった。江戸時代初期頃は秋目郷として1郷とされていたが、明暦3年(1657年)頃に秋目郷と久志郷が合併し久志秋目郷となり、地頭館は久志に置かれた。明治2年からは久志秋目、坊泊、鹿籠の3郷が合併し南方郷が発足し秋目村は南方郷に所属することとなった。村高は「郡村高辻帳」では59石余、「天保郷帳」では59石余、「旧高旧領取調帳」では64石余であったと記録されている。伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」には家数が298であると記録されている。 秋目郷は旧坊津町の区域にある久志郷、坊泊郷と同じく小さい郷であったが、他の郷との陸路の交通はとても険峻な地形によって妨げられており、また海運交易・交通の面において秋目浦は重要な湊として扱われていることから、秋目村1村のみで秋目郷が形成されたのではないかと「坊津町郷土誌」では推測している。秋目浦が重要な港として扱われていることが分かる事件として秋目地頭が自分の領地に引きこもり、秋目浦を下知していなかったため、罷免されるという事件が発生している。また、塩屋には海路の要津に設置される内外船舶の取締りを行う役所である「遠見番所」が設置された。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』には秋目港が挿絵付きで収録されており、以下のように記されている。 秋目港 秋目村にあり、此港南より入たる海灣なり、周廻凡そ七町餘、港口の東には、島嶼相連り、其西岸には、素麺崎といへる巌觜突出す、故に灣内港となる、然れとも深きを僅に四尋にして、風濤高く、大船の安泊を得ずとぞ、前海西南の方は、鶴喰崎の地海上に突出し、又西は蒲葵島海上に𢫵蔽し、且衆嶼怪巌所々に相點して、風景殊に愛すべし、村民悉く港に臨んで居をなす、 —三国名勝図会巻之二十七 秋目のうちとされていた浦町である秋目浦は「諸郷村附並浦附」などに登場しており、弁才船を含め74隻余りの交易船と漁船を有する港町であった。琉球や日本海沿岸、蝦夷などと交易をしていたほか、漂流船を装った唐船と交易をしていたとされる。鎖国制度が取られて以降も享保年間に発生した「享保の唐物崩れ」と呼ばれる幕府の一斉摘発まで交易による賑わいは続いたという。 また、交易のほかにカツオ漁が盛んであり、江戸時代には親方と呼ばれる船主を中心とする漁業が行われていたという。大正時代になり秋目の漁民の共同船が沈没する事故が発生しその後没落したという。
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