西晋の崩壊とは? わかりやすく解説

西晋の崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 21:46 UTC 版)

張寔 (前涼)」の記事における「西晋の崩壊」の解説

同年張寔は督護王該を長安派遣し地方珍品名馬経史書物といった諸郡の貢物献上した8月、漢(前趙)の中山公劉曜が長安襲来すると、張寔救援為に再び王該を派遣した愍帝張寔忠誠称賛し都督陝西諸軍事に任じた。 この時、度重なる劉曜軍の侵攻により長安は完全に孤立しており、食料不足となった長安では人同士食らい合い多く死者が出る有様であった11月愍帝劉曜降伏することを決め黄門郎史淑・侍御史王沖涼州派遣した。史淑らは張寔接見すると「帝は降伏されました我等陛下の詔を持ってここまで逃げてきました」と述べ詔書見せたその内容は「国は災厄見舞われ、禍は晋室にまで降りかかり、京城洛陽)は陥落し先帝懐帝)は賊に捕らわれたたままこの世去った。朕は宛・許と漂流した末に旧都長安至った群臣朝廷主君がいないことから、皆朕に帰し、朕は幼少身ながら王公の上に立つこととなった帝位に昇ってから四年が経ったが、巨寇を除いて危難を救うことも出来ず、民百姓へはしきりに苦難を被らせてしまった。皆朕の不明の致すところである。羯賊(異民族の蔑称)の劉載(劉聡の別名)は帝号を僭称し、先帝災い与え、思うがままに藩王殺害した。この仇恨・恥辱決し忘れず今日まで片時も戦い準備怠ったことは無かった劉曜昨年9月よりその衆を率い、虚に乗じて深く侵攻し、羌胡を人質に取って北地落とした麹允は軍を率いて迎撃したが、その六軍は敗れて賊軍長安迫り弓矢宮殿の中まで届く程だった。胡嵩らは国難駆けつけようとしたが、後方に留まったため効果無かった。さらに深く包囲されると、外からの救援到着しなくなった食糧尽き人員不足し遂に捕虜の身となってしまった。上は天霊に恥じ、下は祖宗痛ましく思う所である。汝の家は代々忠実温厚節操固く守り、その勲功西夏の地において目覚ましく四海の人が敬い慕っており、朕の拠り所であった。今、汝を大都督涼州牧・侍中司空任じるので、これを受け入れ情勢見て事を進行するように。琅邪王司馬睿)は宗室中でも賢人であり、今は遠く江南の地にいる。今、朝廷流亡の状態にあり、国家危急の時を迎えている。朕は既に、琅邪王に詔を下して帝位代行させるよう伝えている。願わくば、汝は琅邪王助け、共に国難立ち向かうように。もし汝が晋室を忘れていないのであれば宗廟傍にいることを頼みたい。朕は明日には城を出て投降するので、夜のうちに公卿呼び寄せ後事託した。史淑・王沖密かに汝の下に派遣し、この詔を授けるのだ。この重命を受け、汝が奮勉することを望む」というものであった張寔2人勅使三日三晩渡って盛大にもてなしたが、愍帝捕らわれたことを受け、任命され官職全て辞退した。 これより以前張寔叔父である張粛長安危機聞き、自ら先鋒となり劉曜撃破したいと請うたが、張寔張粛老齢であることから許可しなかった。長安陥落したと知ると、張粛悲憤余り亡くなった317年1月、漢帝劉聡愍帝強制的に帝から降ろした知り張寔三日渡って慟哭した。また、この国難を救うため、太府司馬韓璞・滅寇将軍田斉・撫戎将軍張閬・前鋒督護陰預に歩騎1万率いさせ、東へ派遣したまた、将軍陳安安故太守賈騫・隴西郡太守呉紹らにもそれぞれ郡兵を率いさせ、韓璞らの前駆とした。 出兵前、張寔韓璞戒め以前諸将遣わした際、各々意志異なり動き同じくすることが出来ず作戦阻まれた。内部和親出来ていないのに、他人従わせることなど出来わけがない。今、五将の統率を卿に任せるので、一体となり行動起こすのだ。我の耳に不和連絡届かない事を願う」と伝えたまた、南陽王司馬保に書を送り王室変事があれば、我ら身命投げうつことを忘れてはなりません。我が州は遠方にあり、都では多難続いております故、以前には賈騫を派遣し変事起きた際には公の動き呼応できるよう遠望させておりました。その最中で符命(愍帝即位)を受け、勅命により賈騫の軍は一旦帰還しました。その後賊軍により北地陥落し長安奴ら迫った時、胡嵩は軍を進ませず、麹允が金五百をもって救援を胡嵩に請う有様でした。これを聞いて我は再度、賈騫らを進ませました。ですが、あえなく朝廷は賊の手落ち、我は主上への忠を遂げること叶わず、兵を遣わして難を救うことも出来ませんでした。このことを深く慨嘆しており、この責任死しても取ることは出来ないでしょう今更ながら、我は賊軍討伐する為に韓璞らを遣わしたので、ただ公の命に従うのみです」と述べ、共に漢帝国を討つよう求めた韓璞南安にまで軍を進めたが、諸々羌族により進路阻まれた。両軍百日余りに渡って対峙したので、韓璞軍の兵糧・矢は尽きてしまったが、張閬が金城の軍を率いて到着したため、挟撃して敵軍大破し数千首級挙げた。しかし、韓璞軍はそれ以上進軍継続できず、引き返した

※この「西晋の崩壊」の解説は、「張寔 (前涼)」の解説の一部です。
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