虹の国を目指して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)
「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「虹の国を目指して」の解説
新政権発足後、マンデラは人種間の融和に心を砕いた。1996年には11の言語を公用語とし、すべての差別を禁じる新憲法が制定され、すべての人種が調和して共存する「虹の国」が南アフリカのスローガンとなった。黒人居住区へのインフラの整備や教育の充実などを行い、アファーマティブ・アクションの実施により人種間の格差を縮めようとした。また経済政策においては国民党政権を継承し、ネオリベラリズムの立場を堅持した。このため南アフリカ経済は成長を続けたものの、もともと500万人の白人向けの経済と雇用であった南アフリカ経済を4000万人の南アフリカ国民むけに再構築することは難しく、企業は高利益体質を維持したものの、雇用は遅々として拡大しなかった。さらにアパルトヘイトの消滅によって、これまで南アフリカに入国できなかったモザンビークやジンバブエなど近隣諸国から黒人が続々と職を求めて流入して来た。そのために失業率が極度に悪化し、失業者は政治暴力の時代から巷にあふれる銃火器を持って犯罪に走った。こうして、南アフリカの治安は世界最悪レベルにまで落ち込み、ヨハネスブルグやダーバンの中心街は大企業が流出しゴーストタウンと化すようになった。 1999年、マンデラは引退し、副大統領のターボ・ムベキが大統領に就任した。ムベキは黒人経済力増強政策を実施し、白人企業の役職や権益を他人種に分配して経済格差を縮小させようとした。しかし人種間の差は多少縮まったものの、問題の根本である所得分配の不平等と失業はまるで改善されず、治安も悪化したままであった。さらにムベキ政権はエイズ対策に失敗し、南アフリカの生産労働人口の21.5%(2004年)がHIVに感染していると推定されるまでになった。 2008年、副大統領のジェイコブ・ズマがANC議長の座からムベキを追い落とし、大統領に就任した。ズマ政権はエイズ問題、ジニ係数0.73という世界一の所得格差、失業問題、世界一悪い治安など問題山積の状況であり、またアパルトヘイトの陰も完全に消え去ったとは言いがたい。しかし2010年には2010 FIFAワールドカップが南アフリカで開催されることとなり、それに伴い民間中心に治安改善の動きが起こり、また公共交通機関が非常に弱かった南アフリカで初の都市近郊高速鉄道ハウトレインが開業するなど、改善へと向けた動きが出てきている。
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