蒙古襲来期とは? わかりやすく解説

蒙古襲来期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 00:23 UTC 版)

安達泰盛」の記事における「蒙古襲来期」の解説

文永3年1266年6月連署時宗邸で執権・実時・泰盛による「深秘沙汰が行われ、謀反理由将軍宗尊親王帰洛定められた。代わって3歳惟康親王が新将軍として鎌倉迎えられ幼少親王将軍につけることで時宗権力固め意図であった。泰盛は将軍への救心性を持ちながらも時宗支持したと見られる文永5年1268年)、幕府蒙古襲来危機迎える中、18歳時宗執権となる。 泰盛は文永11年1274年)の文永の役後に御恩奉行となり、将軍惟康親王安堵実務代行した得宗家との親密な関係の一方将軍宗尊親王惟康親王との関係も密接であり、将軍親衛軍側近名簿には必ず泰盛の名が見える。第3代将軍・源実朝未亡人西八条禅尼は、文永9年1272年)に実朝菩提寺照心院に宛てた置文に、寺の諸問題起きた時には実朝志し深かった安達景盛の孫である泰盛を頼るように記しており、京都貴族層と将軍仲立ち務めていた。 時宗文永9年1272年2月二月騒動同族内の対抗勢力排除して得宗独裁の強化図り安達家でも、泰盛の庶兄安達頼景所領2か所没収命じられた。文永10年1273年)に宿老死去、実時もこの頃引退・死去しており、文永年間以前まで見られ北条一門寄合衆メンバーから消え得宗家被官である御内人台頭してくる。建治年間寄合衆メンバー御内人平頼綱諏訪真性文官三善康有などで御家人は泰盛のみであった時宗政権支えた二本は頼綱を筆頭とする得宗被官と、外戚外様御家人安達氏代表する泰盛であったが、御内人外様御家人という両者時宗と結ぶ関係のあり方対照的で、両者の対立必然であった建治元年1275年京都若宮八幡宮社新宮建築に当たり、御家人費用捻出求められるが、泰盛は北条氏一門500貫~200貫)、足利氏200貫)、大江長井氏(180貫)に次いで多い、150貫の費用提供した建治3年1277年12月時宗嫡子・貞時の元服際し、泰盛は烏帽子持参する役を務めてその後見となる。弘安4年1281年)の弘安の役後、弘安5年1282年)、52歳の泰盛は秋田城介嫡子宗景に譲り、代わって陸奥守任じられる陸奥守幕府初期大江広元足利義氏除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族引付衆評定衆進出し北条一門肩を並べるほどの勢力となっていた。

※この「蒙古襲来期」の解説は、「安達泰盛」の解説の一部です。
「蒙古襲来期」を含む「安達泰盛」の記事については、「安達泰盛」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「蒙古襲来期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蒙古襲来期」の関連用語


2
0% |||||

蒙古襲来期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蒙古襲来期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの安達泰盛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS