蒙古襲来期
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文永3年(1266年)6月、連署時宗邸で執権政村・実時・泰盛による「深秘の沙汰」が行われ、謀反を理由に将軍・宗尊親王の帰洛が定められた。代わって3歳の惟康親王が新将軍として鎌倉へ迎えられ、幼少の親王を将軍につけることで時宗の権力を固める意図であった。泰盛は将軍への救心性を持ちながらも時宗を支持したと見られる。文永5年(1268年)、幕府が蒙古襲来の危機を迎える中、18歳で時宗が執権となる。 泰盛は文永11年(1274年)の文永の役後に御恩奉行となり、将軍・惟康親王の安堵の実務を代行した。得宗家との親密な関係の一方、将軍・宗尊親王、惟康親王との関係も密接であり、将軍の親衛軍、側近の名簿には必ず泰盛の名が見える。第3代将軍・源実朝の未亡人西八条禅尼は、文永9年(1272年)に実朝の菩提寺照心院に宛てた置文に、寺の諸問題が起きた時には、実朝に志し深かった安達景盛の孫である泰盛を頼るように記しており、京都の貴族層と将軍の仲立ちを務めていた。 時宗は文永9年(1272年)2月の二月騒動で同族内の対抗勢力を排除して得宗独裁の強化を図り、安達家でも、泰盛の庶兄の安達頼景が所領2か所没収を命じられた。文永10年(1273年)に宿老政村が死去、実時もこの頃に引退・死去しており、文永年間以前まで見られた北条一門は寄合衆のメンバーから消え、得宗家被官である御内人が台頭してくる。建治年間の寄合衆メンバーは御内人の平頼綱、諏訪真性、文官の三善康有などで御家人は泰盛のみであった。時宗政権を支えた二本柱は頼綱を筆頭とする得宗被官と、外戚で外様御家人の安達氏を代表する泰盛であったが、御内人と外様御家人という両者が時宗と結ぶ関係のあり方は対照的で、両者の対立は必然であった。 建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の新宮建築に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、泰盛は北条氏一門(500貫~200貫)、足利氏(200貫)、大江長井氏(180貫)に次いで多い、150貫の費用を提供した。建治3年(1277年)12月、時宗の嫡子・貞時の元服に際し、泰盛は烏帽子を持参する役を務めてその後見となる。弘安4年(1281年)の弘安の役後、弘安5年(1282年)、52歳の泰盛は秋田城介を嫡子宗景に譲り、代わって陸奥守に任じられる。陸奥守は幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた。
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