自衛隊への見切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:42 UTC 版)
6月13日、三島、森田、小賀、小川の4名が港区のホテルオークラ821号室に集合し、これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことから、自分たちだけで実行する具体的な計画を練り始めた。 自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す方法か、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させ、国会占拠・憲法改正を議決させる方法を三島が提案した。討議の結果、楯の会2周年記念パレードに東部方面総監を招き、その際に拘束する案などが検討された。 6月20日、日本武道館で第13回全国空手道選手権大会が開かれ、楯の会会員と三島は基本組手の演武を披露し、三島は森田と演武試合をした。6月29日、市ヶ谷会館で行われた6月例会で、三島は黒板に「coup d'État(クーデター)」と書いた。 6月21日、三島ら4名が千代田区の山の上ホテル206号室に集合した。市ヶ谷駐屯地内のヘリポートを楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨が三島から報告され、総監室がヘリポートから遠いことから、拘束相手を32連隊長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され全員が賛同した。 7月5日、三島ら4名が山の上ホテル207号室に集合し、決行日を11月の楯の会例会日にすることに決めた。例会後のヘリポートでの訓練中、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した。 7月8日、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第2回「戦争の放棄」が配布され、討議が行われた。7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の41年型白塗りコロナを購入した。7月16日に行われた7月例会で、今後例会後に市ヶ谷駐屯地の敷地内で体育訓練をすることが決まった。 7月下旬、三島ら4名が千代田区紀尾井町のホテルニューオータニのプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことを決め、誰にするか相談した。8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった4名は、古賀浩靖(第5班副班長)を仲間に加えることを決定した。 9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、森田と小賀は西新宿にある深夜スナック「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明し賛同を得た。9月9日、三島は銀座のフランス料理店に古賀を招いて計画の具体案を聞かせ、決行日は11月25日だと語った。 9月10日から12日まで、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地でリフレッシャーコースが行われた。この頃、三島は約4年近く世話になった滝ヶ原駐屯地へ感謝の言葉を述べつつ、〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみを馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた自分自身の、ほとんど狂熱的心情を自らあはれみもするのである〉と綴った。 9月25日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名が新宿の伊勢丹会館後楽園サウナに集合。三島は楯の会例会の招集方法を変更することを提案し、11月例会には、近親や親戚に自衛隊関係者を持つ者や、就職・結婚が決まっている者を除いた会員に三島が直接連絡することを決めた。 9月30日、「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第3回「『非常事態法』について」が配布され、討議が行われた。10月以降も資料を踏まえた改憲討議が研究会内で進められた。 10月2日、三島ら5名は、銀座の中華料理店「第一楼」に集合。32連隊長を拘束する具体的手順を決め、その際に、ありのままを報道してもらえる信頼できる記者2名を32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した。 10月19日、三島ら5名は10月例会の後、千代田区麹町半蔵門の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった。中央の椅子に三島が座り、その後列左から森田、古賀、小川、小賀が立って撮影された。 10月23日、都内の火葬場(桐ヶ谷斎場)や給電指令所で楯の会の演習が行われた。この演習前に市ヶ谷私学会館に集合した会員の前で、三島は黒板に「coup d'État」と無言で書き、ルート占拠や都市機能をマヒさせるための具体的な場所を示した。 会員たちは、班に分かれて現場の下見に行き、いよいよ楯の会全員でのクーデターが始まるのだと思った。会員の中には、楯の会結成以前から防衛研究所に通い、軍事知識や技術(要人監視・尾行、線路爆破方法)を取得していた者もいた。 下見の後、三島を含む5人が蕎麦屋に行き、1人が箸を三島に渡す時に、三島が右手で受け取りやすいように両手で差し出すのに気づいた三島が、「僕がこの日本に残したいと言っていることはこういうことなんだよ」と、他人に箸を渡す時のちょっとした心遣いの日本人らしさについて語った。 10月27日、三島は前学生だった持丸博と共に約2年半前に作成した血盟状を、劇団浪曼劇場の庭で焼却した。著名した者の多く(元論争ジャーナル組)が脱退したので焼却したい旨を、三島は17日に持丸に伝えていた。しかし、持丸はこれを渡す前に、血盟状のコピーを内密にとっておいた。 血盟状焼却後、六本木の「アマンド」でコーヒーを飲みながら、「お前がやめた後、会の性格が変わったよ。これから(来年から)は会のかたちを変えようと思う。お前も、会のことはよく知っているので、外部からひとつ応援してくれよ」と三島は持丸に言った。
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