美濃部達吉とは? わかりやすく解説

みのべ‐たつきち【美濃部達吉】


美濃部達吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/02 02:10 UTC 版)

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年明治6年〉5月7日 - 1948年昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者憲法学者政治家東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後1948年には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎宮沢俊義柳瀬良幹田中二郎鵜飼信成田上穣治など。


注釈

  1. ^ 父は漢方医であったものの、町内の子供達に習字漢字を教えて、主としてその月謝で暮らしていたため、暮らし向きはあまり豊かでなかった。母は知識と教養を備えた賢夫人であった。三歳上の長男・俊吉は東京に出て東京帝国大学に学び、農商務省の役人となり、後には北海道拓殖銀行朝鮮銀行などの総裁も務めている。(以上、高見勝利講座担任者から見た憲法学説の諸相--日本憲法学史研究序説」『北大法学論集』第52巻第3号、北海道大学大学院法学研究科、2001年、803-840頁、ISSN 0385-5953NAID 1200009572342021年7月1日閲覧 
  2. ^ 1、2年のときの成績はトップで、最終3年のときは2番であった。このとき1番は、美濃部の妹と結婚した南新吾である(前掲高見)。なお、法律学科首席は同じく憲法学者の筧克彦
  3. ^ 文官高等試験行政科の試験成績も2番だった(前掲高見)。
  4. ^ 美濃部は大学院への進学を希望していたが、兄・俊吉(当時、農務省勤務)から生活援助を受けていたため、卒業後すぐに自活の途を講じなければならず、やむなく内務省に勤めた(前掲高見)。
  5. ^ やむなく役人生活に入ったもののなじめず、学究への志も止みがたくいたところ、恩師・一木から大学で比較法制史講座の担任者となることを打診される。美濃部はこの話を受け、一木の推薦を得て大学院に進んだ。もっとも、欧州留学までは内務省試補という名目で、内務省から手当を受けていた(前掲高見)。なお、美濃部は憲法学においてゲオルグ・イェリネックの影響を極めて強く受けたことは美濃部自身が認めるところであるが、美濃部の留学の名目が担当講座の比較法制史の研究であったので、イェリネックの講義を聞くことができなかったことを後年まで後悔した(ゲオルグ・イェリネック著・美濃部達吉訳『人権宣言論他三論』〈日本評論社、1946年〉はしがき)。
  6. ^ 比較法制史講座の担任は1911年(明治44年)までで、後は中田薫が受け持った。
  7. ^ 菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長

出典

  1. ^ 『官報』第3308号、明治27年7月10日、p.117
  2. ^ 『官報』第4208号、明治30年7月13日、p.184
  3. ^ a b 市原昌三郎一橋と公法学--憲法学・行政法学 (一橋の学問<特集>)」『一橋論叢』第93巻第4号、日本評論社、1985年4月、473-485頁、doi:10.15057/12904ISSN 00182818NAID 110007639924 
  4. ^ 清宮四郎(樋口陽一 編・解説)『憲法と国家の理論』講談社学術文庫、2021年、383-384頁。 
  5. ^ 『官報』第1606号、昭和7年5月11日、p.266
  6. ^ 東京書籍商組合編『出版年鑑 昭和11年版』東京書籍商組合、1936年3月、pp.14-15
  7. ^ 『官報』第2616号、昭和10年9月19日、p.467
  8. ^ 斬奸状を突きつけ拳銃乱射、重傷負わす『東京日日新聞』(昭和13年5月19日夕刊).『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p700 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  9. ^ 清国留学生法政速成科
  10. ^ 同年11月、地方局に改称。
  11. ^ 中央大学百年史編集委員会専門委員会 『中央大学百年史』 通史編下巻、2003年、71頁
  12. ^ 『朝日新聞』 1948年5月25日
  13. ^ 「“朝シャン”とは朝のシャンパンのことなり」ダイヤモンドオンライン
  14. ^ 『官報』第6007号「叙任及辞令」1903年7月11日。
  15. ^ 『官報』第4016号「叙任及辞令」1926年1月16日。
  16. ^ 『官報』第2186号「叙任及辞令」1934年4月18日。
  17. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  18. ^ 『官報』第1815号「叙任及辞令」1933年1月20日。


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美濃部達吉

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詔勅」の記事における「美濃部達吉」の解説

美濃部達吉は1927年昭和2年)に発行した逐条憲法精義』の中で、詔勅決し神聖不可侵ではなく詔勅非難して天皇への不敬にあたらず、詔勅への批評論議国民の自由であると主張した。すなわち帝国憲法第3条天皇神聖ニシテ侵スベカラズ」について次のように説いた憲法以前に於いては責任政治原則未だ認められず、天皇御一身のみならず天皇詔勅をも神聖侵さざるべきものと為し詔勅非議論難する行為総て天皇対す不敬行為であるとせられて居た憲法は之に反して大臣責任制度定め総て国務に関する詔勅付いて国務大臣がその責に任ずるものとした為に詔勅非難することは即ち国務大臣責任論議する所以であつて毫も天皇対す不敬意味しないものとなつた。それが立憲政治責任政治たる所以であつて、此の意味に於いて天皇詔勅決し神聖不可侵性質有するものではない。『天皇神聖ニシテ侵スヘカラス』といふ規定は、専ら天皇御一身にのみ関す規定であつて、詔勅に関する規定ではない。天皇の大権行使付き詔勅付き批評し論議することは、立憲政治に於いては国民の当然の自由に属するものである。 この詔勅批判自由説は1935年昭和10年)の天皇機関説事件で特に問題視された。 衆議院議員江藤源九郎は、美濃部詔勅批判自由説と天皇機関説天皇対す不敬罪構成するとして、美濃部不敬罪告発した検事局取り調べにおいて、美濃部天皇対す不敬行為敢えてする意思もたないため不敬罪構成しない主張した美濃部取り調べにおいて、天皇機関説誤り認めなかったが、詔勅批判自由説については解説不十分な点があったことを認めた。すなわち美濃部は、国務に関する詔勅政治上のものと道徳上のものとに区別し法律勅令条約はもちろん、道徳上の詔勅含め国務に関する詔勅全て議論非難できる主張した美濃部によると法律勅令条約本文上諭は一体として詔勅構成するであって一般国民詔勅といえば教育勅語類い想起するかもかもしれないが、美濃部法律勅令条約詔勅代表として逐条憲法精義第3条解説上記引用)を記述した美濃部はこれを記述した際に、主として法律勅令条約念頭におき、その他の詔勅考慮しなかった。美濃部はこの点に限り解説が不十分であったことを認めた教育勅語については、美濃部はこれを国務に関する詔勅であると考えて逐条憲法精義第55条解説でもそう書いていたため、教育勅語法律上だけでなく道徳上も批判してよいという趣旨読まれる恐れがあることを認めた明治天皇紀編修官長であった三上参次から美濃部聞いた話によると、教育勅語批判されるのを避けるために故意副署省いたいうことであった美濃部はこの話を聞いて考え改め教育勅語明治天皇自身教えということになるため道徳上でけでなく法律上非難加えることは許されない考えようになった昭和天皇美濃部学説内々擁護していたが、ただ美濃部の説の穏当でない点も指摘しており、その一つ詔勅批判自由説であった司法大臣から昭和天皇への奏上原稿には次のように書かれていた。詔勅批判自由説に関する逐条憲法精義』の記述について、その行文不用意不正確にして、その叙説が妥当を欠き、その読者に対して国務に関するものであれば詔勅自体批判するのは国民の当然の自由であるとの感を抱かせるおそれがある。これは出版法第26条皇室尊厳冒涜する罪を構成する認めることができる。ただし同書出版されたときは罰則規定されていなかったこと等から、美濃部処分起訴猶予処分とどめた、と。

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