みのべ‐たつきち【美濃部達吉】
美濃部達吉
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美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。
注釈
- ^ 父は漢方医であったものの、町内の子供達に習字や漢字を教えて、主としてその月謝で暮らしていたため、暮らし向きはあまり豊かでなかった。母は知識と教養を備えた賢夫人であった。三歳上の長男・俊吉は東京に出て東京帝国大学に学び、農商務省の役人となり、後には北海道拓殖銀行、朝鮮銀行などの総裁も務めている。(以上、高見勝利「講座担任者から見た憲法学説の諸相--日本憲法学史研究序説」『北大法学論集』第52巻第3号、北海道大学大学院法学研究科、2001年、803-840頁、ISSN 0385-5953、NAID 120000957234、2021年7月1日閲覧。)
- ^ 1、2年のときの成績はトップで、最終3年のときは2番であった。このとき1番は、美濃部の妹と結婚した南新吾である(前掲高見)。なお、法律学科首席は同じく憲法学者の筧克彦。
- ^ 文官高等試験行政科の試験成績も2番だった(前掲高見)。
- ^ 美濃部は大学院への進学を希望していたが、兄・俊吉(当時、農務省勤務)から生活援助を受けていたため、卒業後すぐに自活の途を講じなければならず、やむなく内務省に勤めた(前掲高見)。
- ^ やむなく役人生活に入ったもののなじめず、学究への志も止みがたくいたところ、恩師・一木から大学で比較法制史講座の担任者となることを打診される。美濃部はこの話を受け、一木の推薦を得て大学院に進んだ。もっとも、欧州留学までは内務省試補という名目で、内務省から手当を受けていた(前掲高見)。なお、美濃部は憲法学においてゲオルグ・イェリネックの影響を極めて強く受けたことは美濃部自身が認めるところであるが、美濃部の留学の名目が担当講座の比較法制史の研究であったので、イェリネックの講義を聞くことができなかったことを後年まで後悔した(ゲオルグ・イェリネック著・美濃部達吉訳『人権宣言論他三論』〈日本評論社、1946年〉はしがき)。
- ^ 比較法制史講座の担任は1911年(明治44年)までで、後は中田薫が受け持った。
- ^ 菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。
出典
- ^ 『官報』第3308号、明治27年7月10日、p.117
- ^ 『官報』第4208号、明治30年7月13日、p.184
- ^ a b 市原昌三郎「一橋と公法学--憲法学・行政法学 (一橋の学問<特集>)」『一橋論叢』第93巻第4号、日本評論社、1985年4月、473-485頁、doi:10.15057/12904、ISSN 00182818、NAID 110007639924。
- ^ 清宮四郎(樋口陽一 編・解説)『憲法と国家の理論』講談社学術文庫、2021年、383-384頁。
- ^ 『官報』第1606号、昭和7年5月11日、p.266
- ^ 東京書籍商組合編『出版年鑑 昭和11年版』東京書籍商組合、1936年3月、pp.14-15
- ^ 『官報』第2616号、昭和10年9月19日、p.467
- ^ 斬奸状を突きつけ拳銃乱射、重傷負わす『東京日日新聞』(昭和13年5月19日夕刊).『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p700 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 清国留学生法政速成科
- ^ 同年11月、地方局に改称。
- ^ 中央大学百年史編集委員会専門委員会 『中央大学百年史』 通史編下巻、2003年、71頁
- ^ 『朝日新聞』 1948年5月25日
- ^ 「“朝シャン”とは朝のシャンパンのことなり」ダイヤモンドオンライン
- ^ 『官報』第6007号「叙任及辞令」1903年7月11日。
- ^ 『官報』第4016号「叙任及辞令」1926年1月16日。
- ^ 『官報』第2186号「叙任及辞令」1934年4月18日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第1815号「叙任及辞令」1933年1月20日。
- 1 美濃部達吉とは
- 2 美濃部達吉の概要
- 3 生涯
- 4 年譜
- 5 家族・親族
- 6 脚注
美濃部達吉
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美濃部達吉は1927年(昭和2年)に発行した『逐条憲法精義』の中で、詔勅は決して神聖不可侵ではなく、詔勅を非難しても天皇への不敬にあたらず、詔勅への批評や論議は国民の自由であると主張した。すなわち帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」について次のように説いた。 憲法以前に於いては責任政治の原則が未だ認められず、天皇の御一身のみならず、天皇の詔勅をも神聖侵さざるべきものと為し、詔勅を非議論難する行為は総て天皇に対する不敬の行為であるとせられて居た。憲法は之に反して大臣責任の制度を定め、総て国務に関する詔勅に付いては国務大臣がその責に任ずるものとした為に、詔勅を非難することは即ち国務大臣の責任を論議する所以であつて毫も天皇に対する不敬を意味しないものとなつた。それが立憲政治の責任政治たる所以であつて、此の意味に於いて、天皇の詔勅は決して神聖不可侵の性質を有するものではない。『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』といふ規定は、専ら天皇の御一身にのみ関する規定であつて、詔勅に関する規定ではない。天皇の大権の行使に付き、詔勅に付き、批評し論議することは、立憲政治に於いては国民の当然の自由に属するものである。 この詔勅批判自由説は1935年(昭和10年)の天皇機関説事件で特に問題視された。 衆議院議員江藤源九郎は、美濃部の詔勅批判自由説と天皇機関説が天皇に対する不敬罪を構成するとして、美濃部を不敬罪で告発した。検事局の取り調べにおいて、美濃部は天皇に対する不敬行為を敢えてする意思をもたないため不敬罪を構成しないと主張した。 美濃部は取り調べにおいて、天皇機関説の誤りを認めなかったが、詔勅批判自由説については解説に不十分な点があったことを認めた。すなわち美濃部は、国務に関する詔勅を政治上のものと道徳上のものとに区別し、法律・勅令・条約はもちろん、道徳上の詔勅を含め、国務に関する詔勅は全て議論・非難できると主張した。美濃部によると法律・勅令・条約の本文と上諭は一体として詔勅を構成するのであって、一般国民は詔勅といえば教育勅語の類いを想起するかもかもしれないが、美濃部は法律・勅令・条約を詔勅の代表として『逐条憲法精義』第3条解説(上記引用)を記述した。美濃部はこれを記述した際に、主として法律・勅令・条約を念頭におき、その他の詔勅を考慮しなかった。美濃部はこの点に限り、解説が不十分であったことを認めた。 教育勅語については、美濃部はこれを国務に関する詔勅であると考えて『逐条憲法精義』第55条解説でもそう書いていたため、教育勅語も法律上だけでなく道徳上も批判してよいという趣旨に読まれる恐れがあることを認めた。明治天皇紀の編修官長であった三上参次から美濃部が聞いた話によると、教育勅語は批判されるのを避けるために故意に副署を省いたいうことであった。美濃部はこの話を聞いて考えを改め、教育勅語は明治天皇自身の教えということになるため道徳上でけでなく法律上も非難を加えることは許されないと考えるようになった。 昭和天皇は美濃部の学説を内々で擁護していたが、ただ美濃部の説の穏当でない点も指摘しており、その一つが詔勅批判自由説であった。司法大臣から昭和天皇への奏上の原稿には次のように書かれていた。詔勅批判自由説に関する『逐条憲法精義』の記述について、その行文が不用意・不正確にして、その叙説が妥当を欠き、その読者に対して国務に関するものであれば詔勅自体を批判するのは国民の当然の自由であるとの感を抱かせるおそれがある。これは出版法第26条の皇室の尊厳を冒涜する罪を構成すると認めることができる。ただし同書が出版されたときは罰則が規定されていなかったこと等から、美濃部の処分を起訴猶予処分にとどめた、と。
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