第一次世界大戦とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:39 UTC 版)
「扶桑型戦艦」の記事における「第一次世界大戦とその影響」の解説
日本海軍が第一次大戦を通して得た教訓は以下の通りであった。 防御力強化の重要性 主力艦中心主義と巡洋戦艦戦隊を中心とした前進部隊の価値の再認識。 また、英巡洋戦艦の喪失理由としては砲塔と弾火薬庫の局部的防御法の不備によって口径の小さい独巡洋戦艦の主砲弾によって撃沈される事となったと判断しており、これには英巡洋戦艦の軽装甲と独巡洋戦艦の砲弾貫徹力とも関係し、英艦の砲弾が独艦を沈め得なかったのは英艦の砲弾にも欠陥がある事を物語っているとしていた。このため、新戦艦については設計を大幅に変更し排水量を増大して防御力等の改正を行った。しかし、既存艦については防御の改善は行われず、山城の場合は1930年(昭和5年)に入り漸く防御の改善が行われる事となった。その一方で砲術面での研究は熱心に行われており1915年(大正4年)の昼間戦闘射撃は主砲弾の落角8度及至18度で実施される事となり日本海軍に於いても射撃は第一世界大戦での射距離とほぼ同じ距離で行われる事となった。更に翌年の1916年(大正5年)の昼間戦闘射撃は主砲弾の落角10度及至20度に相当する距離で行われる事となり、新たに艦隊に加わった扶桑でも規定距離15,500mから射撃が実施される事となった。これは第一次世界大戦前年度の1914年(大正3年)に行われた昼間戦闘射撃における金剛の射距離8,500mと比べた場合一挙に2倍以上射距離が延伸しており、扶桑に続いて艦隊に編入された山城も参加した1918年(大正7年)の昼間単艦戦闘射撃では遂に最大仰角に相当する距離から射撃が行われる事となった。また、砲弾の信管についても従来型の伊集院信管・三年式信管に代わり1924年(大正13年)に完成した十三式信管が採用されたが、同年に戦艦日向、巡洋戦艦金剛によって戦艦薩摩を利用して行われた榴弾射撃では、自爆防止装置が不十分で甲鈑表面で炸薬が自爆するか、信管の遅動が不十分で甲鈑を穿突する前に砲弾が炸裂し水面下に破口を生じさせたり甲鈑内外の船体に損傷を与えることが出来ない不完全な物であった。そのため、日本海軍が使用していた従来の徹甲弾よりは性能が向上していたといっても未だにその性能はドイツが使用した徹甲弾に劣るものであった。しかし、その後1928年(昭和3年)には五号徹甲弾を改良し徹甲性、自爆防止、水中性を加えて表面硬化甲鈑だけでなく均質甲鈑への穿突力を考慮した六号徹甲弾が採用される事となり、他国の徹甲弾と比べた場合依然として性能は劣るものの自爆防止装置と0.4秒の遅動信管を備えた事でユトランド沖海戦でドイツ海軍が使用した徹甲弾と同一原理の徹甲弾を日本海軍でも使用することが可能となった。また、1931年(昭和6年)には遠達効果と弾量増加を目的に弾頭部を鋭角にし弾丸尾部を船尾型とした九一式徹甲弾が制式採用される事となった。
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