番組スタートの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:59 UTC 版)
「大喜利22バンケット」の記事における「番組スタートの経緯」の解説
鈴々舎馬るこがレギュラー出演していた「大喜利セーフ22」が、2021年8月27日に200回目の配信を迎えたことを機に、9月以降の水曜日の配信枠を、鈴々舎馬るこの「大喜利22バンケット」とすることを決めた。 鈴々舎馬るこは、同年春頃より、自らの発信によるストリーミング生配信に目覚めており、7月13日には立川こしらからノートPCを無料で譲受。番組制作のためのOBS操作も、こしらから公開で指南を受けた
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番組スタートの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 03:28 UTC 版)
「FMナイトストリート」の記事における「番組スタートの経緯」の解説
後に、番組に出演していたパーソナリティーの一人である赤坂泰彦が語ったところによると、最初の目的は「FMでも深夜放送をやろう、AMに対するアンチテーゼとして、FMでもトーク主体の深夜番組をやろう。」というものであったとされる。さらに「人気が出た暁には、キー局にもネットされることを目指そう」という目標もあったようだが、実際にこの番組の人気が上がった頃、目標であったキー局であるTOKYO FMでは、当番組をネットせず、自前で同じトーク主体の新番組(「スーパーFMマガジン NORU SORU」など)を立ち上げてしまい、一部FMの局のネット乗換が起こったという「オチ」がついてしまった。それだけでなく、1994年3月一杯で終了後は、25〜26時台はTOKYO FM・JFNCが共同制作する新番組「ラジ王」に吸収・統合され、24時台は「JET STREAM」のネットが拡大する結果となった。また、27〜30時台は「まんたんMUSIC」になったが、こちらは放送開始半年後にTOKYO FMでの一部時間のネットを開始した。 なお、番組の立ち上げには当時ラジオプレス社代表であったドン上野が関わり、以後番組終了までプロデューサーという立場で見守っていくこととなった。
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番組スタートの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:25 UTC 版)
「エンドレスナイト」の記事における「番組スタートの経緯」の解説
1980年代中盤、東京のテレビ各局では、フジテレビの「オールナイトフジ」をはじめ、数多くの深夜の大型生放送番組が人気を博していた。フジテレビから「オールナイトフジ」のネットの要請もあったが、「お色気は一切排除する」という意向があったために拒否した(その後、当時の郵政省からのクレームで「オールナイトフジ」からもお色気が排除された)。それを受けて、関西テレビでも土曜深夜の大型生放送番組の企画準備が進んでいた。そして1984年1月、後に番組では「セクシー上沼」の愛称で人気者となった、上沼真平プロデューサー(当時・タレント上沼恵美子の夫)に白羽の矢が立ち、番組発足に向けて動き出した。上沼は番組終了までの6年間、プロデューサーを担当した。 この時「司会者はお笑いタレント以外の人を」「お色気は一切排除する」「終了時間未定(これのみオールナイトフジの流れをくんだ)」などのコンセプトが立てられ、吉本・松竹に代表される、従来の関西のお笑い番組とは一線を画した「夢のある面白情報番組」のコンセプトが生まれた。 そして、メインを飾る男性司会者を選定するにあたっては「関西出身で大阪弁をしゃべる事」「知的な欲求が強い」「団塊の世代で既婚者、子供が居ること」「男前でなく、親しみやすい」といった条件にあてはまる人間を起用することにした。その結果、ラジオの深夜放送のパーソナリティーとして、若者から絶大な支持を集めていたばんばひろふみが選ばれ、女性からは兵藤ゆきを抜擢した。 当時、ばんばは毎日放送ラジオの「MBSヤングタウン」、文化放送「セイ!ヤング」続く「青春キャンパス」でそれぞれ、歌手・谷村新司と「チンペイ・バンバン」のコンビで人気を博していた。また兵藤も、KBS京都ラジオの「ヤングテレフォンQ&A」で、若者の悩みに真剣に答えるアネゴ的存在で、悩める若者から慕われていた。2人ともテレビ番組の本格的な司会は初めてで、ばんばはこの出演依頼に消極的であったが、時間制約が極めて緩く、またラジオ的な展開が可能であることに惹かれ、司会を承諾したという。 そして番組を彩るエンドレスギャルズも「可愛いだけのアホはいらん!」の姿勢で呼びかけ、初期のギャルの中には女性漫才コンビ「ハイヒール」のモモコや、女性カントリーソンググループ「ラブ・ポーション」の笠井則江や中村貴子、ジャーナリスト志望のナンシー・リーなどがいた他、後に関西の情報番組で活躍するリポーターや司会者など、様々な将来性・可能性をもったギャルズが在籍していた。この斬新なキャスティングや、お色気のない爽やかなスタイルが、男女問わず、若い世代を中心に人気を集めた。 加えて、深夜の生放送に異例ともいえる、ニュースコーナーやテレビショッピングコーナーを設けたことや、終了時間を未定とすることで、関西テレビは報道局や技術送出セクション、また関連会社などの全面的なバックアップ体制を敷いた。また、こうした不確定要素の多い番組でありながら、同社の労働組合も、これまでにない新しい番組という事で積極的に支援したという。こうした中、1984年7月7日の深夜、24時41分に番組はスタートした。
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