甲斐国志の編纂者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 05:25 UTC 版)
甲府町年寄坂田家文書「御用日記」享和3年(1803年)11月29日条に拠れば、『甲斐国志』の編纂は同年に甲府勤番の滝川利雍(出羽守)の在任中に始まり、私選事業の建前であるが幕府の内命により地誌編纂が命じられ開始されたという。 甲府城郭内の甲府学問所(徽典館)において徽典館学頭の富田武陵や都留郡下谷村(都留市中央)の長百姓森嶋基進(弥十郎)らが中心となって編纂に伴う史料調査が開始される。徽典館は大学頭・林述斎が命名し、扁額は松平定信が揮毫しており、『甲斐国志』編纂の内命は定信・述斎の人脈が影響していたと考えられている。 文化2年に滝川の異動により事業は後任の松平定能によって引き継がれ、定能の家臣らが編纂員に加わる。国中三郡では編集主任である巨摩郡西花輪村(中央市西花輪)の長百姓である内藤清右衛門(字は禹昌、号は花渓)を中心に、補佐として同郡上小河原村(甲府市上小川原町)の松村弾正左衛門(諱は「善政」)が加わり、松平定能の役宅を編纂所とした。森嶋、内藤、村松の三名は定能の家臣として扱われた。 富田武陵(富五郎、「武陵」は号、諱は幹)はもと伊賀同心。寛政5年(1793年)3月に失脚し、翌寛政6年2月に甲府勝手小普請役として赴任する。徽典館設立以前から勤番士子弟への教育に携わり、徽典館学頭に登用された。武陵は甲斐において多くの文人と交流している。文化4年(1807年)に死去。 内藤清右衛門(1751年 - 1831年)は西花輪村に生まれる。前島昇平『峡中詩藪』には『甲斐国志』完成した際の清右衛門の漢詩が収録されている。子の景助も父とともに甲斐国志の編纂に携わり、清右衛門を襲名して私塾・時習館を経営し、天保6年(1835年)2月に西野村(南アルプス市西野)に開校した郷学・松聲堂(西野手習所)の創設にも携わる。 松村弾正左衛門(1764年 - 1817年)は上小河原村の神主の家に生まれる。諱は「善政」。生家の村松家は弟が継ぎ、弾正左衛門は寛政2年(1790年)に伊豆国へ転居する。伊豆では秋山富南に弟子入りし、富南ともに伊豆の地誌『豆州志』に携わった経験を持ち、秋山家の婿となる。その後、生家を継いだ弟が死去したため、享和2年(1802年)9月に甲斐へ帰国し村松家を継ぎ、『甲斐国志』の編纂に携わる。 村松の筆録として『臆乗(おくじょう)』がある。これは伊豆時代に『豆州志』を編纂するために古文書や記録のノートとして記したもので、伊豆時代には秋山富南と共著で巻十までが記される。それ以降は甲斐帰国後に『甲斐国志』を編纂するために活用している。 村松自筆の『臆乗』は「甲州文庫」に巻十一、十二が含まれる。また、村松自筆の『臆乗余』が「赤岡重樹旧蔵資料」に含まれる。さらに、大正期に「山梨県志」編纂のために蒐集された「若尾史料」には『臆乗』の巻十三から巻三十三、『臆乗余』の写本が存在する。いずれも山梨県立博物館収蔵。
※この「甲斐国志の編纂者」の解説は、「甲斐国志」の解説の一部です。
「甲斐国志の編纂者」を含む「甲斐国志」の記事については、「甲斐国志」の概要を参照ください。
- 甲斐国志の編纂者のページへのリンク