渡洋爆撃
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渡洋爆撃(とようばくげき)とは、総じて海洋を越えて実施する爆撃行のことであるが、特に1937年(昭和12年)8月13日夜に勃発した第二次上海事変において、大日本帝国海軍が上海租界の海軍陸戦隊や第三艦隊、現地居留民を支援するために行った14日、15日、16日の長距離爆撃は、渡洋爆撃の名でセンセーショナルに報道されて以後有名となった。
注釈
出典
- ^ 上野盛夫 (1999年). “世界初の渡洋爆撃<大村海軍航空隊から離陸(発進)した攻撃機> <大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など>”. https://www.fukushige.info/. 2024年5月26日閲覧。
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- ^ 「1連空機密第23号の3の3 戦闘詳報第3(8月16日) 第1連合航空隊 昭和12年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C14120253600
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- ^ 「滁州、揚州攻撃戦闘詳報 木更津海軍航空隊 昭和12年8月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C14120255300
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- ^ PROTECTION OF CIVILIAN POPULATIONS AGAINST BOMBING FROM THE AIR IN CASE OF WAR Unanimous resolution of the League of Nations Assembly,September 30, 1938.
- ^ 石川寅治 (1941年). “渡洋爆撃”. https://www.momat.go.jp/. 東京国立近代美術館. 2024年5月21日閲覧。
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渡洋爆撃
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14日、台風の中で初の渡洋爆撃が敢行されることとなり、新田慎一少佐率いる九六式陸上攻撃機 9機、浅野楠太郎少佐率いる8機は台湾松山飛行場を発し、荒天の中をそれぞれ杭州、広徳飛行場への渡洋爆撃に出撃した。この時、梅林は浅野隊の2番小隊長機であった。浅野隊は飛行場施設および航空機に250キロ爆弾を投入し、格納庫2、高射砲1および滑走路に留めてあったノースロップ・ガンマ2EC(英語版)爆撃機約20、カーチス・ホーク戦闘機約10の大部分の破壊を報告したが、中国空軍暫編第34中隊長・周庭芳上尉のカーチス・ホークⅡ(英語版)(老ホーク)に進路を妨害され、実際には爆弾の多くは稲田に落ちて失敗したと思われる。また帰路にて、梅林小隊の2番機(片野正平三空曹機)が銭塘江上空にて中国空軍第4大隊第22中隊分隊長・鄭少愚中尉のカーチス・ホークⅢ(英語版)(新ホーク)に燃料タンクを撃ちぬかれ、基隆港の社寮島(中国語版)灯台沖に不時着水、乗員は救助されたが機体は放棄された。新田隊は高志航中校率いる第4大隊主力の迎撃を受け、2機未帰還・1機大破の損害を負った。 16日、句容・揚州への渡洋爆撃が実施されることとなり、午前8時、新田少佐率いる句容爆撃隊6機が、8時40分には石俊平大尉率いる揚州爆撃隊7機が松山飛行場を発した。梅林は石隊の2番小隊1番機に搭乗し、小隊長兼偵察者であった。9時30分、石大尉搭乗機が発動機不調により引き返したため、梅林が指揮官代理となる。12時15分ごろ、揚州飛行場を爆撃、12時30分ごろ、中国空軍第5大隊24中隊・25中隊の新ホーク10機との戦闘で左タンクが被弾、機体炎上。その際、黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げ、乗員7名とともに自爆した。中国側の資料では、梅林機を撃墜したのは第5大隊副大隊長の馬庭槐であったとみられる。 句容爆撃隊でも第3大隊第17中隊および第5大隊第28中隊の迎撃で2機が撃墜され、新田少佐以下15名が犠牲となった。同日、第一連合航空隊司令官戸塚道太郎少将は戦闘詳報の中で「陸攻隊の強襲は、往年の二〇三高地(旅順攻囲戦)の強襲に等しい心境で敢行した」と述べている。 死後、その散り際の見事さが戦場美談として伝えられた。当時、顕彰歌として「その名も薫る梅林」と歌う『あゝ梅林中尉』(下記)が作られたほか、浪曲を含む各種媒体で取り上げられた。また、1939年には北村西望の指導のもと、梅林ら戦没者7点の胸像が石原昂ら7人の彫刻家「報国芸術会」によって制作され3月19日、遊就館に献納されている。 顕彰歌 『あゝ梅林中尉』 (日本コロムビア 1937年10月25日発売) 作詞:西條八十 作曲:江口夜詩 歌:霧島昇、コロムビア合唱団 朗読 『梅林大尉遺言』(日本コロムビア) 朗読:福井銀城 詩吟 『壮烈梅林大尉』※上記B面、和歌本宮三香、漢詩湯沢天真の二部からなる。 歌:福井銀城
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