その後の渡洋爆撃
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最初の三日(1937年〈昭和12年〉8月14、15,16日)以降も上海、南京、揚州、九江、考感、徐州、広東など、大陸側に基地が確保される年末まで渡洋爆撃は続いた。渡洋爆撃における陸攻隊の被害が大きいことに驚いた海軍は航空本部教育局長の大西瀧治郎大佐を済州島に派遣し、大西大佐は21日早朝の揚州爆撃への同行を希望して二番機に同乗したが悪天候で目標を発見出来ず、やむなく浦口飛行場を爆撃したが敵戦闘機の迎撃を受けて6機中4機を失う被害を出した。危うく生還した大西大佐は作戦中止を戸塚司令に進言したが、戦況から来る作戦要求から護衛無しの爆撃は続けられた。 陸攻隊の損耗が激しく上海方面の制空権も確保しつつあったため、本土に控置されていた木更津空の九五式陸上攻撃機6機も済州島基地に前進して9月30日から渡洋爆撃に使用されており、飛行性能が劣るものの大搭載量を生かして爆撃に活躍した。 11月から12月にかけて基地が整備されると木更津空と鹿屋空の陸攻隊は上海方面の基地に進出し、大陸側に活動拠点を移した。また12月10日には上海虹橋飛行場に陸軍航空部隊も進出している。
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