水戸德川家墓所とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 水戸德川家墓所の意味・解説 

水戸德川家墓所

名称: 水戸德川家墓所
ふりがな みととくがわけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 茨城県
市区町村 常陸太田市
管理団体
指定年月日 2007.07.26(平成19.07.26)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 水戸德川家は、家康11男の頼房を家祖とし、慶長14年(1609)に25万石 で水戸に入封した徳川御三家一つで、元禄14年(1701)に35万石石直され、明治維新まで水戸藩領した藩主参勤交代しない、江戸定府通例であった分家御連枝)は讃岐国高松藩松平家12万石)、陸奥国守山藩松平家2万石)、常陸国府中藩松平家2万石)、同宍戸藩松平家1万石)の4家があった。
 水戸德川家墓所は、瑞龍山号し茨城県北部常陸太田市北部郊外阿武隈山地から続く国見山南側丘陵斜面部に立地している。東西360m南北50 0m標高134mから65mの範囲営まれ、東に里川沖積平野を、西に谷津田を望む景勝地であり、昭和40年代頃まではアカマツ林囲まれていた。讃岐松平家以外の3支藩の分家は、本家水戸藩主德川家と同じ墓所埋葬されている。単一藩主家名を付すことに無理があるため、本家家名に基づく名称を用いる。
 墓の形態は、2代光圀儒教基づいて定めた水戸德川家独自の形態である。葬祭無宗教であるため、墓所内に菩提寺無く僧侶立ち入り禁じられていた。墓所は、寛文元年(1661)の初代頼房の埋葬、墓造営始まり延宝5年167 7)に頼房側室久子光圀生母)、初代水戸領主武田信吉家康5男)、2代夫人尋子 が水戸から改葬され本格的な墓所造営開始された。江戸時代の墓は水戸藩主当 主)・夫人墓が29基、一族墓が86基、その他4基の合計119営まれた。
 瑞龍山墓所中程小さな沢が入り東西二つ分かれる峰の南側斜面に墓が点在する。東の峰には初代7代、9代、11代、12代、13代の墓が、西の峰には2代3代4代5代6代8代10代の墓が営まれ、代が降るに従って下部造営された。
 当主夫人墓は、方形石積み基壇同一区画内に営まれ四周玉垣巡らし正面当主墓、右手夫人墓を配置する中央長方体石材3段積み重ねて玉壇を築く。玉壇の上亀趺据えその上に墓標を建て、墓標背後漆喰固めた当主埋葬用の側面からみると台形正面からみると上部が丸を帯びた三角形の馬鬣封と、夫人埋葬用の円錐型の馬蹄封を築く。初代頼房は正室迎えなかったために墓は1基である。頼房墓の区画外の東隣に側室久子の墓が営まれた。10代13代は正室二人迎えたため、3つの玉壇が並んでいる。2代光圀だけが、生前に自らの墓の前の一段下がった場所に寿蔵碑を建てている。
 墓所東側平坦地には一族墓が営まれた。一族墓は、支藩守山府中宍戸藩各藩主・夫人、本藩・支藩藩主生母側室夭折した子女等で、時代が降るに従って東側営まれ墓所東側拡張されたことを示している。
 朱舜水墓は東西峰の間の沢地形の窪地営まれている。舜万治2年165 9)に日本亡命した中国明朝末の儒学者光圀儒教の師で、天和2年(1682)に江戸水戸藩邸で死去した農業医学等にも優れた才能発揮して光圀藩政支え光圀は自ら門人称して敬慕していた。
 墓所南側入り口参道沿いの東側には参拝の際に装束整え御装束所が、西側 には警備のための番所がある。正式な参拝では、一つの墓の参拝終えるたびに御装束所に戻り装束整えてから別の墓を参拝した
 水戸德川家墓所は、光圀定めた儒教葬の様式遵守して当主家3支藩の分家が、同一墓所で墓を営み続けた特徴的な大名家墓所であり、近世大名家の墓制家族史歴史文化考え上で重要である。よって史跡指定し保護図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  水上石器時代住居跡  水前寺成趣園  水子貝塚  水戸德川家墓所  水殿瓦窯跡  水池土器製作遺跡  水泥古墳



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  水戸德川家墓所のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「水戸德川家墓所」の関連用語

水戸德川家墓所のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



水戸德川家墓所のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2024 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS