墓制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 漢城 熊津 漢城期横穴式石室の分布(赤) 旧百済の領域にある墳墓は非常に多様であり、この多様性は同時期の新羅・伽耶や高句麗と比べ特殊である。 また、百済における墓制のもう一つの特徴は、隣接する他の諸国、高句麗や新羅、そして倭国等と比べてその規模が小さいことであり、百済人が墳墓に記念的な外観を求めなかった事を示していると考えられる。 百済を含む朝鮮半島南部、いわゆる三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の地域では、三国時代以前から木棺を埋葬主体とする木棺墓が主流であり、百済の初期の墓制もこうした馬韓以来の伝統の中から成長したものであると考えられる。 馬韓地域では特に埋葬設備の周りに口の字型、またはコの字型に溝を張り巡らせた周溝墓という形態が主流であった。 これを基礎として発達した墓制には、他に明瞭な墳丘を構築せずに地下に埋葬を行った土壙木棺墓や、楽浪郡の影響で形成されたとも考えられる、木棺の周りに木槨(棺を納めるための枠)を組んだ木槨墓、葺石を持った円形の墳丘に木棺を修める木棺封土墳(葺石封土墳)などの形式がある。このような旧来の墓制から発達したものとは異質なものとして、現在のソウル市の江南地方にある石村洞古墳群には多数の積石塚が残されている。このうち石村洞3号墳は東西49.6メートル、南北43.7メートル、高さ4メートルの規模を持ち、古墳群最大級の大きさを誇ることから、近肖古王の墓に比定する意見もある。考古学者の山本孝文は、このような積石塚は墳墓にあまり視覚効果を要求しなかった百済地域における古墳としては例外的な大型墳丘であり、初期百済の墓制の代表的なものであるかのような印象を受けるが、漢江流域以外では旧百済地域で他に類例がなく、その築造時期も4世紀後半から5世紀前半に限定されることから、特殊な状況下で造営された形態であることは確実であるとしている。この建築様式は一般に高句麗の影響を受けて成立したものと考えられており、この墓制を百済の建国や王室の交代と結び付けようとする様々な説が提案されている。横穴式石室も中国や高句麗など多様なルートから導入された。 横穴式石室はその後、百済の主墓制として完全に定着し、形態や社会的性格の変化を経ながら百済時代の終焉まで存続した。 熊津時代の墳墓としては、最も有名な宋山里古墳群の武寧王陵を始めとした塼築墳(塼室墳)が見られる。これは塼と呼ばれる粘土を焼いた煉瓦によって構築された墳墓であり、これもまた外来の形式を導入した墓形式である。朝鮮半島では楽浪郡で既に3世紀以前に塼築墳が造営されていたが、200年もの時間的隔たりがあり、技術的にも断絶していることから、6世紀前半に新たに中国の南朝(梁)から導入されたものであると考えられている。 一方、百済の周縁部の墓としては、まず公州(かつての熊津)の東北35キロメートル程に位置する新鳳洞古墳群があり、4世紀から6世紀にかけて造営された土壙墓や竪穴式石室墓、横穴式石室墓等、多数の墳墓が残されている。そこから発見された出土品には、漢城や熊津のような百済の中心部とは毛色の異なる、伽耶地方と関係の深い土器などが発見されており、百済における一地方の特色を示している。 同じく公州の北6キロメートルにある水村里古墳群では、熊津への遷都が行われる以前からこの地方に勢力を持っていた地方集団の墓域が発見されており、木槨墓や竪穴式石室墓、横穴式石室墓が発見されている。 最南部にあたる全羅南道は5世紀末から6世紀に新たに百済の支配下に入った地域であり、百済の勢力拡張に伴う墓形式の変化が確認されている。 この地域では元来甕棺墓が墓制の中心であった。5世紀には甕棺も大型化し、金銅冠や刀剣、鉄器、勾玉などを含む豊かな副葬品を持つ墓が多数造営されていたことが確認されている。 百済の勢力の拡張と共に、その影響を受けこの地でも横穴式石室が広がった。この地域にある伏岩里3号墳では、同一の墳丘の中に長期に渡り埋葬が行われ続け、埋葬形式が古来からの甕棺墓から、百済中期式(または九州式)の横穴式石室へ、そして百済後期式の横穴式石室に変化していったことが発見されており、甕棺墓を中心とした墓制から横穴式石室墓への過渡期を見ることができる。全羅南道にある横穴式石室を持つ古墳の中には、日本列島で見られる前方後円墳と類似した墳丘を持つもの(前方後円形墳、長鼓墳とも)が栄山江流域を中心とした地域で造営されている。2017年現在で10数基(確定できない物を含むため、数は不定である。)が発見されており、当時の朝鮮半島の墳墓としては例外的に巨大な物が含まれる。石室構造や副葬品から見て5世紀後半から特に6世紀前半に建造されたものと見られる。栄山江流域周辺では、前方後円墳に加え、日本列島系の馬具や甲冑、勾玉などが在地の文物と共に副葬品として出土することなどから、これらの墓の造営者が倭と特に密接な関係を持っていたと推定されている。その被葬者を巡っては倭人説、倭系百済官僚説、在地首長説など様々な説が出されているが、文献史料が存在しない事と相まって未だ論争の中にある。 「朝鮮半島南部の前方後円形墳」も参照
※この「墓制」の解説は、「百済」の解説の一部です。
「墓制」を含む「百済」の記事については、「百済」の概要を参照ください。
墓制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:09 UTC 版)
亀甲墓は元来、破風墓とともに士族のみに許された墓形式であったためか、沖縄本島でも首里・那覇を中心に中南部によく見られる。 沖縄の伝統的な墓制は門中墓・家族墓であるが、かつては社会階層や地域、また各門中ごとに被葬者の資格が細かく決まっており一様に定義するのはむずかしい。首里・那覇の上流士族階層では、歴代当主とその室、あとは夭折した子女のみを葬る本墓(家族墓)と、側室や次男以下の兄弟が葬られる脇墓とが区別される例があった。 沖縄本島南部には、幸地腹門中墓・赤比儀腹門中墓のように、腹(ハラ)と呼ばれる大門中の墓がある。ここには5,400m2の敷地に2門中約5,500人が葬られている。トーシーと呼ばれる本墓はかつては亀甲墓であったが、1935年(昭和10年)に現在見るような破風墓に改修された。トーシーの内部はシルヒラシ所と納骨所に分かれており、シルヒラシ所には80歳以上の高齢でなくなった者や功労のあった者が葬られる。 個人墓は沖縄ではきわめて例外的であるが、玉城親方朝薫の「一ツ墓」や今帰仁按司朝敦(具志川御殿三世)の「津屋口墓(アカン墓)」のような例があった。 ほかにもアジシー(按司御墓、神御墓)と呼ばれる祖先墓と現在使用している門中墓との区別などもある。 沖縄では厨子甕(蔵骨器)は墓室に納めるが、台湾などでは小さな縦穴を掘り金斗と呼ばれる蔵骨器をそこに納める(近年は墓室タイプも登場している)。また、洗骨(拾骨)も、沖縄では風葬後に行うが、台湾では土葬後に行われる。
※この「墓制」の解説は、「亀甲墓」の解説の一部です。
「墓制」を含む「亀甲墓」の記事については、「亀甲墓」の概要を参照ください。
墓制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 00:42 UTC 版)
「日本列島の旧石器時代」の記事における「墓制」の解説
死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。
※この「墓制」の解説は、「日本列島の旧石器時代」の解説の一部です。
「墓制」を含む「日本列島の旧石器時代」の記事については、「日本列島の旧石器時代」の概要を参照ください。
「墓制」の例文・使い方・用例・文例
- >> 「墓制」を含む用語の索引
- 墓制のページへのリンク