横綱昇進~大鵬の難敵として
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「栃ノ海晃嘉」の記事における「横綱昇進~大鵬の難敵として」の解説
1963年11月場所では大鵬幸喜・柏戸剛をなで斬りにし、14勝1敗で二度目の優勝を成し遂げた。この場所14日目の大鵬戦では低く当たって左差し、右から絞ってもろ差しを果たすと、両差し手を返して大きくなり、がぶって一気に寄り立てた。両上手を取れない大鵬は剣ヶ峰で右小手投げを打つと、栃ノ海が右ハズ、左を返して体ごとぶつけるようにして寄り切った。 1964年1月場所は13勝2敗の好成績を挙げ、横綱昇進先陣争いと言われた佐田の山、豊山勝男に先行して場所後の横綱昇進を果たした。しかし、この場所は優勝した大鵬が15戦全勝、次点に東前頭13枚目の清國勝雄が14勝1敗で続いており、昇進直前場所が優勝次点ですらない成績での昇進は疑問の声もあった。理事会や横綱審議委員会においても「小兵が横綱を務めるのは困難」との意見が多数出たものの、春日野が栃ノ海を強く推薦したことで昇進に繋がった。しかし、その外部の声は春日野にも届いており、「もう、あとは『引退』だけだよ。ダメならすぐ辞めなきゃいけないんだよ」と言い渡し、栃ノ海は昇進を決めた直後だったにも関わらず、引導を渡されたように感じたという。これには、春日野が横綱に昇進した当日も、先代・春日野から「今日からは毎日、辞める時の事を考えて過ごすように。『横綱』とは桜の花の散る如く引退するものの、追い詰められて引退するものでは無い」と言われて浮ついた気持ちが一気に引き締まったと語っている。昇進時の口上は「謹んでお受けいたします」のみで、横綱2場所目の1964年5月場所では、千秋楽に大鵬との対戦を制して13勝2敗で3度目の優勝を果たしたが、同場所が栃ノ海にとって最後の優勝となった。 その後の栃ノ海は椎間板ヘルニアを発症して坐骨神経痛となって著しい不調に陥り、3場所連続で8勝7敗に終わったことから「ハチナナ横綱」と揶揄されるなど苦渋を味わった。その後は回復して10勝5敗の成績を挙げるが、今度は右上腕の筋肉を断裂するアクシデントにも見舞われた。これは患部が見た目でもわかり(断裂部分がへこんでいる)、押せば肌が直接骨にあたるほどの重傷だった。これは力士として致命傷となり、出場する場所で毎回金星を献上するなど厳しい土俵が続き、1966年11月場所を最後に現役引退を表明した。昇進当初は「私はあまり(身体が)大きくない。だからせめて、30歳までは現役を務めたい」と目標を立てていたが、引退時の年齢は28歳8ヶ月で、当時の横綱最年少引退記録を作る結果となった。全休場所を除いた全ての場所で金星を配給するという、歴代横綱で唯一の不名誉な記録も作ったが、大鵬にとってはかなりの難敵で、幕内での対戦成績は大鵬16勝に対して栃ノ海7勝と健闘したほか、自身が横綱在位中に3場所連続で8勝7敗の不名誉な成績だった間にも大鵬を撃破したことがある。また、幕下から十両にかけて栃ノ海は大鵬(当時の四股名は「納谷」)にとってどうしても勝てない強敵で、幕下時代に初めて対戦してから大鵬が新十両の場所まで4連勝していた(翌場所、大鵬は初めて花田に勝った)。また、栃ノ海の横綱土俵入りはキビキビとしていて、相撲ぶりがよく表れており評価は高かった。
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