検察側論告
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以上の多様な鑑定書が提出された後、検察側は同月19日に開かれた第3回公判において、検察側による論告求刑が行われた。 検察側はまず、事件前日の夕食時刻について、広川が予審半ばまで一貫して19時頃であると述べていたものを、小南鑑定が出された後になって20時半頃と変更した不自然さを指摘した。6月30日に広川が小笛に出したとされる手紙についても、今までほとんど小笛に手紙など書かず、「小笛が神戸に来ては困るので自分が京都に出向いている」と公言していたはずの広川が、「皆さんお誘ひの上でお遊びに御出でて下さい須磨へ御案内致します」などと書いている点からしても、偽装工作であることは明らかとした。 小笛の死因を自殺とした三田鑑定については、同月に九大法医学教室で開かれた法医学会でこの問題が議論の対象となったが、誰一人として三田の主張に賛同する者はいなかった、としてその信頼性を否定した(実際には、この学会には草刈も出席していたが、草刈は裁判中の事件について論評することをよしとせず、他殺説にあえて反論しなかった)。そして、小笛は共に情死するという広川の言葉を信じたがために、ほとんど抵抗することなく殺害されたのである、とした。 他の3人の犠牲者についても、やはり全員が広川によって殺害されたとした。Aについては、上掲の遺書で小笛が広川に殺害を依頼している反面、他の遺書には「ニモツヲトツテキテ〔A〕ニヤツテクダサイ」などと、Aの生存を念頭に置いた記述がある点を指摘した(注参照)。検察側は、後者こそ最後に書かれた小笛の本心であり、小笛にはAを殺害する意思はなかったと主張した。そして、Aの寝床に散らばった広川の名刺が、広川の犯行を指し示している、と論告した。 以上の論告に基づき検察側は、広川が小笛と情死を約束するに至った経緯には酌むべき事情があるものの、他の3人の殺害については何ら同情の余地はないとして、広川に死刑を求刑した。
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検察側論告
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「アルベルト・シュペーア」の記事における「検察側論告」の解説
裁判は1945年11月20日から開始された。シュペーアの法廷での席は後列右から3番目だった(左隣はザイス=インクヴァルト、右隣はフォン・ノイラート)。 ギルバートの回顧によれば、検察が法廷で上映した強制収容所でのユダヤ人虐殺の記録映像にシュペーアはごくりと唾を飲み込んでいたという(一方、ゲーリングは退屈そうに欠伸していたという)。 1946年1月3日には検察側証人として出廷したオットー・オーレンドルフに対してシュペーアの弁護士エゴン・クブショクが反対尋問を行った。クブショクが「シュペーアがヒトラーの焦土作戦を阻止するために行動していたことを知っていますか」と質問すると、オーレンドルフは「知っています」と答えた。ついで「終戦時にシュペーアがヒムラーを連合国に引き渡そうと考えていたことは知っていますか」と質問するとオーレンドルフは「そんな話は一度も聞いたことがありません」と答えた。さらに「1944年7月20日にヒトラーの暗殺を謀った者たちが政府にシュペーアを加えようとしていたことを知っていますか?」という質問にオーレンドルフは「それは知っています」と答えた。そして衝撃を呼んだのが次の質問だった。「シュペーアが戦争末期にヒトラー暗殺を計画していたことを証人はご存知ですか?」。法廷内にどよめきが広がり、被告席のゲーリングはシュペーアを睨んだ。オーレンドルフは「そのような計画は聞いたことがありません」と答えた。ここで休廷となったが、激怒したゲーリングはシュペーアの方に詰め寄り、「なんだってあんな反逆的な事を暴露した?被告人全体の共同戦線が崩れるではないか!」と非難した。シュペーアは「共同戦線ですって!?」と言ってゲーリングを突き放した。 独房に戻ったゲーリングは「この嫌な世の中にも名誉というものがある。ヒトラーの暗殺だと!全くいい加減にしてもらいたいよ。私は穴があったら入りたいぐらいだった。私ならたとえ犯罪者ヒムラーであろうと敵に売り渡そうとは思わない。」と怒り心頭だった。翌日の昼食でもゲーリングは「敵が我々に対して何をしようと私は気にしない。だが同じドイツ人同士が互いに裏切るのを見ると胸糞悪い」と怒りを露わにし、顎でシュペーアを指しながら「あの阿呆にそのことを話してこい!」とフォン・シーラッハに命じた。シーラッハはシュペーアのところへ行き、「貴方がドイツの名誉に傷をつけていることをゲーリングが怒っている」と告げたが、シュペーアは「ゲーリングはヒトラーが全ドイツ人を破滅に導いている時にこそ怒るべきだった。ドイツのナンバーツーとして彼は手段を講じる義務があった。しかし彼はヒトラーに対して何もできない臆病者だった。すべきことをしないでモルヒネに溺れ、全ヨーロッパから美術品を略奪していただけの男が私を非難する資格などない」と反論した。 以来ゲーリングとシュペーアは不倶戴天の敵となった。ゲーリングはシュペーアを全被告から孤立させようとしたが、シュペーアは逆にゲーリングの被告人統一戦線の破壊を目指した。刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉に「被告人が一緒に食事や散歩をするのはいい考えではありませんね。こんなことを許しているからゲーリングが叱咤激励して被告人に統一行動をとらせることができるのです。」と告げ口し、刑務所長バートン・アンドラスにその件を報告させた。この結果ゲーリングは2月18日から一人で食事させられることになった。 自分が証言台に立つ日が近づくとシュペーアは自分の反対尋問をするアメリカ次席検事トーマス・ドッド(英語版)に次のように語った。「ゲーリングと自分は争っています。ゲーリングは喧嘩腰で検察に反抗する側の代表、自分はナチスの罪を認める側を代表しているわけです。ゲーリングの反対尋問をしたのは主席検事のジャクソンでしたが、私に対しては彼の部下である貴方が反対尋問を行うそうですね。貴方には大変失礼ですが、この差を他の被告人が見逃すでしょうか。彼らの目には私がゲーリングより劣っていると映り、彼らを私の方に引き入れるのが一層困難になるのではないでしょうか」。ドッドはこれをジャクソンに報告し、その結果シュペーアの質問はジャクソンが行うことになった。ドッドはジャクソンより有能な検事と評判だったのでシュペーアはゲーリングとの対立を利用してジャクソンに変更させたのではないかと噂された。
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