東方化様式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 05:28 UTC 版)
東方化様式 (orientalizing style) は、紀元前8世紀から紀元前7世紀にエーゲ海と東地中海で文化的に醸成された。小アジアの都市国家との貿易による繋がりで、東方の工芸品が高度に様式化されてはいるが写実性も認識できる芸術に影響を与えた。アナトリアのウラルトゥやフリギアと同様、北シリアのシロ・ヒッタイト国家群やフェニキアからも象牙細工や陶芸や金属細工の工芸品がギリシャにもたらされるようになったが、東地中海周辺の一大文化中心地だったエジプトやアッシリアとの交流はまだ少なかった。新たな作風はコリントスで生まれ(原コリント様式; Proto-Corinthian style)、遅れてアテナイに(原アッティカ様式として)もたらされた。東方化様式は紀元前725年から紀元前625年ごろに盛んだった。絵付けの主題が多様化したことを特徴とし、スフィンクス、グリフォン、ライオンなどが描かれ、陶器の胴の部分に帯状に神話的ではない様々な動物を並べて描くという作風が見られる。さらにこの帯状装飾にハスや唐草の模様を加えるようになっていった。人物像は比較的まれである。よく見られるのは人物のシルエットを描いて若干の細部を描いたもので、後の黒絵式の原型とされている。絵は我々が絵付師を識別できる程度の詳細さで描かれている。東方化様式の元になった原コリント様式では幾何学模様も残っており、同時期に幾何学様式の陶器も生産されていた。 コリントスの陶器はギリシャ全土に輸出され、その技法がアテナイに伝わると、そこで東方の影響がやや薄れた新たな作風が発展した。この時期の様式を原アッティカ様式 (Proto-Attic style) と呼び、東方的な主題が描かれているがそれほど写実的ではない。絵付師は戦車の行進などの幾何学様式時代の典型的な場面を好んで描いていた。しかし、単なるシルエットではなく描線を加えるようになっている。紀元前7世紀中盤には白地に黒で図像を描く様式が登場し、肌や衣服の色彩装飾を伴っていた。アテナイで使っていた粘土はコリントスよりもオレンジ色が強く、そのままで肌色を表すことは容易ではなかった。アッティカの東方化様式時代の絵付師としては、「アナラトスの画家(英語版)」、Mesogeia Painter、Polyphemos Painter などがいる。 クレタ島やキクラデス諸島では、陶器の胴や口の部分を動物や人の頭部の形状にしたものが流行した。アイギナ島ではグリフォンの頭部を模した陶器が最も多い。パロス島で作られたアンフォラはコリントスの東方化様式の影響をほとんど受けていないように見受けられる。叙事詩的な構図が好んで描かれ、空間畏怖が続いていたようで、隙間を雷文や卍で埋めている。 東方化時代の最終発展形を「野山羊式(英語版)」と呼ぶ。カメイロスのネクロポリスで重要な発見があったことから、ロドス島発祥とされてきた。実際、アナトリア半島に広く見られ、特にミレトスやキオスが生産の中心だったとされている。特に青銅製オイノコエ(水差し)の形状を模したものと皿(脚つきもある)が多い。様式化された動物を重ねるように描いたものが多く、帯状に野山羊の列を描いたものが目立つ(このため、野山羊式と呼ぶ)。余白は花模様や卍で埋められている。
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