未来の見える電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:21 UTC 版)
「名鉄7000系電車」の記事における「未来の見える電車」の解説
名鉄では、1959年に冷房装置を搭載した車両として5500系を登場させていた。特別料金を徴収しない列車での冷房化は、戦前にわずかな実績があるのみであり、冷房を搭載した一般列車は日本国内の鉄道他社や乗用車でもほとんど存在せず、一般家庭にも冷房装置などない時代であり、利用者や沿線住民を驚かせた。しかし、白井は5500系に対して「独創的なところが何もない」と感じており、土川からの5500系をどう思うかという質問にも「夢も希望もない」と即答した。そのやりとりの後、白井は「あるべき車両」について土川に長い手紙を書くと、すぐに土川に呼ばれ「今までにない展望車の計画の創造に全面的に努力せよ」という特命が下った。 イタリアの「セッテベッロ」 モントリオールの「ゴールデン・キャリオット」 土川はイタリアの鉄道を視察した際にイタリア国鉄のETR300電車「セッテベッロ」が気に入ったとされ、このため帰国後に車両部に写真や資料を回付したという話が伝えられているが、土川は「…のような」というようにイメージを縛るような言い方は絶対にしなかったともいわれている。また、当時ライバル視していた近畿日本鉄道(近鉄)の社長である佐伯勇から、10100系「ビスタカー」がブルーリボン賞を受賞したことを自慢されたために、「名鉄もブルーリボン賞を取れる車を」という命令があったともいわれているが、後に白井がブルーリボン賞の受賞式典のために社内で根回しを行った際には、どの部署も鉄道友の会の存在を知らず、「どのような賞なのか説明するのに苦労した」と白井は回想している。 いずれにしても、土川が展望車の実現を望んでいたことは確かで、1960年に役員会で展望車の企画が通ったときには、嬉しそうな顔をしながら白井に企画が通ったことを伝えたという。白井によると、1954年の5000系の企画の中ですでにパノラマカーの図面が含まれていた。 一方の白井は、アメリカ人の友人から送られた保存鉄道ライブラリに掲載されていた、モントリオールの観光用電車である「ゴールデン・キャリオット」をイメージしていたという。白井は、それまでの展望車が後ろの景色しか見えなかったことについては「過去を見ていることにしかならない」として、このように主張した。 人間の本質として、過去よりも未来が見たいはずだ。これから作る展望車は、“未来”が見えるものでなければならない。ことに、子どもにそれを見せたい。 — 白井昭、高瀬文人『鉄道技術者 白井昭―パノラマカーから大井川鐵道SL保存へ』 (2012) p.63 土川もこの「すべての人が前を見られる」というコンセプトに賛成し、さらに「立っている乗客にも前が見えるつくり」を望んだ。 こうして、白井を企画責任者として、展望車の開発が開始された。新型車両の開発は車両を統括する車両部計画課が担当するが、企画責任者の白井は、この時点では教習所の所属のままであった。車輌の製造は日本車輌製造が担当することになった。
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