朝鮮時代後期
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全体的に白衣を着るようになったのは朝鮮後期。 節約を強調する儒教が強くなった影響で、これによって白を保つために逆説的に水の使用が多くなる。どこに行っても洗濯をしている女を見ることができた。 エルンスト・ヤーコプ・オッペルト(Oppert, E.J.)は、彼の著書『朝鮮紀行』("Ein verschlossenes Land. Reisen nach Corea")で「服は男性も女性も多白(染色前の色でキナリとアイボリーの様な色)である。」と述べており、ラゲリー(Laguerie、V.de)も「ゆっくりとどっしりに歩いてすべての人が白い(キナリやアイボリーのような色)服を着ている。」と述べている。朝鮮の両班のみが、色付きや柄付きの服を着ることを許されていた。 以前まであった染色技術は首都圏では、王族や両班によって保存され、地方ではナムサダン(남사당朝鮮半島の伝統的旅芸人)、巫女、山に住んでいる仏教の僧侶など下層民に保存された。 1895年李氏朝鮮時代には、全国に変服令(변복령)と断髪令が降りると、これに抗議する断髪令騒動が起こった。その後、日本統治時代も 白衣を着る習俗に変化は見られなかった。また、日本統治時代が終わった後の朝鮮戦争時代の韓国人の服を見ても、やはり多くの人々は白衣を着ている。 断髪令騒動も又朝鮮史に重要な位置を占めてゐる一節であるが、事は金宏集内閣の兪吉濬(ゆ・きっしゅん)内相が、生活改善運動の一つとして断髪をとりあげ、国王率先断髪を断行、勅語を発して之を法制化し、民衆に強行しようとしたことから初まるのだ。このとき春川の儒生団が一斉に起つて、断髪令こそは、倭夷の蛮法なり、逆党の訓令なりと叫び、さらに背後にあつて閔派の政客之を煽動したものだから、春川、原州、安東、驪州等、今次の南北戦争(朝鮮戦争)の戦場になつた各地に次々と暴動が起り、官衙(役所)及び日本人に危害を加へて行ったのである。髪を切ることが倭夷の蛮法なりと、日本人に責任を負はせてゐる点と、渙発の勅語が又面白い。 「朕臣民に率先して髪を断つ、爾有衆克く朕の意を体し、万国と並立する大業を成せよ」と言ふのであるが、長い民族風習から離れる生活文化の問題だけに、勅語を発して大事をとったのはよかったが、これを励行するため、末端の行政庁では、各戸を訪問して強制実行せしめたり、甚だしいのは巡査が剃刀(かみそり)を持つて、街路に立ち通行人のチョン髷を次々と剃つて行つたのだ。この警察権濫用の弊害は、日本時代にまでずつと残つてゐて、白服常用は洗濯の労力と、生地の損傷(朝鮮では洗濯棒で叩いて洗う)で不経済だから、色服に変更しようではないかと、所謂(いわゆる)色服の奨励を総督の政策の一つにとりあげたときなども、通行の白服人に墨汁を振りかけたり、一人一人捕らへて衆人の前で恥をかかせたりして無意味な反感をそそるその不手際さをよく見た、在鮮時代郡守道庁員等直接民衆に接触する役人をよく戒告したものだが、その末端行政の面に於ていつも断髪令当時のやうなことが行はれるのであつた。そしてかうした小事をとりあげて、政治的に利用し、大衆運動に発展させることの巧みさも又朝鮮民族の特性と言ふことが出来よう。断髪令は一応全国的暴動にならず、鎮圧された。 — 鎌田沢一郎、「朝鮮新話」 創元社、昭和25年 初期李氏朝鮮の朝廷は水の無駄になる時、白衣が喪服の色であることを理由に禁令を出すこともあった。ただし女性のチマはこの限りでは無く、一部の少女と未婚女性および花嫁は赤いチマ、既婚女性や中年女性は藍色のチマ、老女はあさぎ色や灰色のチマを着用することもあったという。普段は一般的に生成りの漂白されていないチマとチョゴリを主に着用した。 長かったチョゴリも後期に短い姿に変わる。男性も着けた装身具も儒教の強い影響で後期に消える。
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