朝鮮共産党の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 05:57 UTC 版)
1928年5月、金天海は在日朝鮮労総中央執行委員長兼争議部長に就任し、日本全体の在日朝鮮人労働運動の最高指導者となった。同月、朝鮮共産党に入党し、東京西南部ヤチェイカの細胞員となった。このころは、東京目黒に住んでいた。 同年6月上旬、朝鮮共産党日本総局責任秘書・韓林ら、大多数の日本総局幹部が逮捕されると、金天海は朝鮮共産党日本総局責任秘書に就任した。 同年夏、朝鮮共産党日本総局と高麗共産青年会日本部は、国恥記念日(日韓併合により朝鮮総督府が発足した8月29日)と関東大震災虐殺同胞追悼記念日(関東大震災が起った9月1日)に向けて、闘争を組織した。この闘争は、労働者の要求に基づく「経済的部門的闘争」ではなく、民族主義に基づいた「民族的政治的闘争」となった。 同年8月29日午後9時、東京新宿の武蔵野館横の空き地で、150人の朝鮮人労働者が集まって、集会を開いた。その後、革命歌、労働歌を歌い、ビラをまきながら、デモ行進した。デモ隊は、駆けつけた警官隊と乱闘となり、23人が治安維持法違反で現行犯逮捕された。警察は、23人の朝鮮人労働者を取り調べて、朝鮮共産党指導部の存在と、指導部指示による集会・デモ闘争を把握した。官憲は、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓、朴台乙ら闘争指導者を割り出した。 同年10月25日、金天海は、神奈川朝鮮労働組合横浜支部で逮捕された。その後、同年11月初旬までに、朝鮮共産党日本総局関係者36人が検挙され、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓、朴台乙ら31人が治安維持法違反で起訴された。金天海ら中心メンバーは保釈を認められず、市ヶ谷刑務所に拘留された。保釈を得た被告は、日本赤色救援会(略称はモップル)とともに、公判対策協議会を立ち上げ、公判闘争を展開した。 同年12月、コミンテルンは、朝鮮共産党の分派抗争に関して、どのグループも支持しないとして、朝鮮共産党承認を取り消した。コミンテルンは「12月テーゼ」を出し、「労働者と農民に基礎を置いて、党を再組織する」ように指導した。 1929年、在日朝鮮労総では、日本共産党指導下の日本労働組合全国協議会(略称は全協)への解消が提起された。同年7月、在日朝鮮労総関東協議会で、川崎と横浜の代表が解消に反対した。金斗鎔(キム・ドゥヨン、1904年朝鮮咸興生まれ、プロレタリア国際主義者)らが解消を推進した。金斗鎔は、労働者独自の運動に戻り、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』に基づいて民族的闘争を放棄することを主張した。その後、東京の在日朝鮮労総と川崎・横浜の在日朝鮮労総の間で内ゲバが起った。 同年12月14日、在日朝鮮労総全国代表者会議で、在日朝鮮労総を解体し、工場を基盤として、組合を産業別に再組織化することが決定した(産業別闘争に向かうことを意味した)。また、全協への即時加盟が決定した。全協には、朝鮮人委員会が設立され、朝鮮人委員会が朝鮮人問題の指導に当たることになった。在日朝鮮労総傘下の組合員数は3万数千人あった。 1930年10月、在日朝鮮労総は全協に再組織されたが、組合員数は2600人に激減した。
※この「朝鮮共産党の活動」の解説は、「金天海」の解説の一部です。
「朝鮮共産党の活動」を含む「金天海」の記事については、「金天海」の概要を参照ください。
- 朝鮮共産党の活動のページへのリンク